【11】それから~紀元前515年 増水期

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【11】それから~紀元前515年 増水期

 満ちた川の水がまた引いて、実りの季節がやってくる。  そうして麦を刈り終えた後には、太陽の輝きは再び激しさを増し、川の水位が次第に上がり始める。  太古より繰り返されてきた一年が、今年もまた始まる。  あれから何度、この季節が過ぎただろう。  ラーメスは、茅を刈る鎌を研いでいた手を止めて、ふと川縁に目をやった。戦のゆくえがどうなったのか、ラーメスをはじめ村人たちは良く知らない。噂ではかつての王が去り、新たな王が立ったとかいう話だが、近くの街や村に異国人が増えて聞き慣れない言葉が話されるようになったこと以外、村の周囲に大きな変化はなかった。  時折、異国人の兵が近隣の村で物を盗んだり、若い娘をたぶらかしたりするという噂は聞く。  川の上流のほうで大きな神殿が閉鎖されたとか、神官たちが沢山殺されたとか、古い神々の像が燃やされたという話も。  世の中がきな臭くなり、旅人たちは新たな王の名前に唾を吐き、呪詛をかける。しかしそれでも、村は王の名で命ぜられたとおり草を刈り、紙を作り続けている。その王が、この国出身の王であるか、異国人であるかなど、どうでもいいことだ。  少年時代に彼が兄と駆けまわった川縁には今日も緑がそよぎ、あの頃と同じように、そっくりな顔をした双子の少年たちが大騒ぎしながら水を掛けあっている。  背後にある、泥れんがを積み上げて作った家の戸口から、ノジュメトが声を張り上げる。  「イアフメス! ジェフティメス! ごはんよ」 母親の声にぱっと顔を上げた少年たちは、我先にと競って勢いよく駆け戻ってくる。  「手はちゃんと洗って。ちょっと、足が泥だらけじゃない。敷物が汚れてしまうわ。ちゃんと落として」 今はラーメスの妻となっているノジュメトは、二人の腕白な息子たちを叱りつけながら一家の主婦らしく配膳をこなしている。  「ほら、ラーメス。あなたも」  「うん」 新しい家は、かつて両親と暮らした家に似せて作ってあった。村を再建するまでの間に亡くなった住人や、ついぞ戻って来なかった住人もいるが、村人たちの顔ぶれはそう大きくは変わっていない。村の風景のほとんどは、以前のままだ。あれから十年を経て、元の暮らしが戻ってきた。  ただ、この村にはもう、守護神はいない。  「父さん?」 パンにかぶりつこうとしていたイアフメスが手を止め、不思議そうに父親を見た。  「どうかした?」  「ああ、いや。ちょっと昔のことを思い出してね」 ノジュメトが差し出したビールの皿を受け取りながら、彼は少し口元に笑みを浮かべた。まだ幼い長男は、性格も見た目も、失くした兄のイアフメスにそっくりだった。まるで生まれ変わってきたようだ、とノジュメトは時々言う。ラーメスも、最近ではそう思うようになっていた。  「昔って、村が焼かれたっていう戦の時のこと?」 そう言った次男のほうは、――顔はイアフメスにそっくりだったが、性格はまったく反対だった。不思議なほど頭がよく、誰から教えられたわけでもないのに天候の変わり目が読めたり、月や星の動きが分かったりする。そして村を訪れる旅人たちに教わっただけで、簡単な算数も出来るようになってしまった。いつかは書記学校に通わせるべきかもしれない、とラーメスは思っていた。学校に行けば、もう少し大きな街で、官職にも就ける。  息子が生まれたらイアフメスと名づけよう、ノジュメトと結婚する時にそう決めていた。  けれど、いっぺんに二人生まれるとは想像さえしていなかった。悩んだ挙句、ラーメスが二人目の息子のために用意したのが、このジェフティメスという名前だった。「知恵の神(ジェフティ)から生まれたもの」。この子の頭の良さを思えば、その名はふさわしかったのかもしれない。  背格好のそっくりな仲の良い兄弟を区別するものは、何より瞳の色だった。イアフメスの瞳の色は父親のラーメスと同じ、黒い川の流れと同じ色だったが、ジェフティメスの瞳は両親のどちらとも違う、澄んだ緑の色――川縁にそよぐ葦の、若葉の色をしていた。  「ごちそうさま!」 あっという間に昼食を平らげたイアフメスは、膝に落ちたパンくずを払ったが、まだ立ち上がろうとしない。弟が食事を済ませるのを待っているのだ。この二人は、かつての自分と兄より仲が良い、とラーメスは常々思っている。性格は正反対なのに、彼らはまるで互いに補いあうように常に行動を共にした。  「そういえばさ、父さん」  「ん?」  「今朝、見たことのない帆船が川を下ってくのを見た。細長くて、先端が尖っていて…大きな四角い帆を張っていて」 長男はここのところ、大型の船に執心のようだった。  「きっと海を渡るやつだよね」  「海、か。そうだな、最近はこの辺りにも異国人がよく来るから――」  「いつか行ってみたいな」 川縁に視線を向けながら、少年は呟く。「海の向こうって、どんな国があるんだろう」  パンを小さくちぎっていた弟のほうが、ぱっと顔を上げた。  「ずるいよ、イアフメス。僕も行く」  「こらこら、お前たち。海を越えるのは危険な旅だぞ、戻って来られるかも分からない」   「そうよ、海なんて。それに、息子が二人とも行ってしまったら、私たちどうなるの」 ノジュメトは眉をしかめている。  「大丈夫だよ。ちゃんと戻ってくるよ。それに、もうちょっと大きくならないとムリだろ。俺が言葉を覚えて交渉して、ジェフティが計算とかすればいい。二人で商人するんだ」 きらきらと輝く黒い瞳で、幼い少年は言う。  「世界が見たいんだ、俺たち」 息子たちの夢物語が理解できない、というように頭を振りながら、ノジュメトは家の中へ引っ込んでゆく。けれど、彼らならきっといつか夢をかなえるのだろうと、父親のラーメスは思っていた。  屈託もなく無邪気に将来の夢を語る息子たちの声を傍らに聞きながら、彼は、高い青空に目を向けた。  神々は死に、人は生きる。  変わらない村の風景と、変わりゆく外の世界。  神々でさえ変化して、あるものは消え去り、別のあるものは名や装いを変えて生き残る。人の望むがままに、神々の世界も移ろいゆく。  いや、…本当は、人も変わるのだ。  古い世代が過去にとらわれているその側で、今、彼の息子たちは、新たな世界へ飛び出してゆくことを望んでいるではないか。  「ごちそうさま! 行こう、兄さん」 ジェフティメスが立ち上がると同時に、イアフメスはもう駆け出していた。元気な声が、河の方へ遠ざかってゆく。十年後か、二十年後か、彼らはいつか夢を実現するだろう。そしてあらゆる束縛を逃れ、国境のない黒く波立つ海を越え、天を廻る疲れ知らぬ星々もまだ知らぬ国へ二人で征くのだ。  ――この村にはもう、守護者はいない。  それでも人は同じ大地に住み続け、結婚し、子を産み、育て、老いては死んでゆく。  たとえ人がその名を忘れようとも、不滅なる星々は天を巡り、月の舟は夜の下にある。 ***  紀元前525年、サイス王朝の滅亡とともに、エジプトは独自の王を失い、ペルシャ帝国の支配下となる。  圧倒的な軍事力と財力、そして強力な支配体制の下、その後も足掻き、何度も反乱を繰り返すが、異国の支配を脱することは容易ではなく、これ以降の時代は、ローマによって完全に統合される紀元前30年までおよそ500年、ほぼ全ての時代において、異国人に支配され続けることとなる。  人々の暮らしに急激な変化は訪れなかったが、古代の伝統や信仰は、長い時間をかけて緩やかに失われてゆく。  古き神々が人とともに生きていた時代は、終わりつつあった。 <了>
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