【2】死の顎(あぎと)

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【2】死の顎(あぎと)

 イアフメスの家は、川沿いの道から少し奥に入った、祠のある高台のすぐ下にあった。同居しているのは両親と弟、それに妹。何事もなく平凡で、平和な毎日を過ごしてきた。  寒さが緩み、麦のが重たい黄金色の穂を垂れるこの季節、農夫たちは収穫のために大忙しで、よその村から嫁いできている女性たちなどは、実家を手伝うために子供たちを連れて里帰りする。”王家の草”はようやく新しい芽を出し始めたばかりで、まだ芽は柔らかく、刈り取るには早すぎるから、この季節には村の生業である紙づくりの工房も休みに入っている。  水位は低く、ふだんは水に沈んでいる中洲もみんな姿を現して、越冬のために暖かい上流へ行っていた渡り鳥の群れが、再び、浅瀬へと戻って来る。勤勉な者たちは川に釣り糸を垂れ、不真面目な若者たちは、舟と舟を付きあわせて水上で取っ組み合いに打ち興じ、相手を水中に叩きこもうとしたり、普段は徒歩で行かれぬ村までこっそり出かけていって、意中の女の子と楽しい時を過ごしたりする。  けれどあの日、イアフメスとラーメスがしていたのは、決して不真面目な遊びではなかった。イアフメスは、弟と二人きりで話がしたくて静かな川の中ほどまで舟を漕ぎだしたのだった。  二人は双子だった。  兄は(イアフ)の出ている間に生まれ(メス)、弟のほうは太陽(ラー)の昇る日の出の頃に生まれた。  顔も体格もそっくりなのに性格はまるで正反対ね、と、母はいつも笑っていたものだ。兄イアフメスは、何でも思っていることをずけずけと口にし、思い悩むことをしない性格。弟ラーメスは何につけても思慮深く、悩みを抱え込みやすかった。名前と性格が逆だわ、と、ことあるごとに言われていた。  その母が流行病(はやりやまい)で死んだのが、五年ほど前。  男やもめとなった父は、ほどなくして、同じ流行病で夫をなくした村の女性と再婚した。新しく妻として迎えられた女性には、兄弟より二つ年下の連れ子を連れていた。それが、義理の妹、ノジュメトだった。  もとより狭い村の中で、皆が家族のようにして暮らしていたのだ。最初から顔見知りだったし、親子仲も兄弟仲も良好だった。それなのに、ある時からラーメスが妙に兄や妹によそよそしくなり、どこか遠慮がちに、距離をとるようになっていた。それが、ずっと気になっていたのだった。  いくら聞いても本当のところを言おうとしない弟に業を煮やして、イアフメスは、やや強引に舟で川に連れ出した。周りに誰もいない、簡単に逃げようもない場所まで連れて行けば、きっと理由を喋ってくれるだろうと。  けれどラーメスは頑として口を割らず、半ば言い争いのようになっているうちに、いつしか舟は中洲に近付きすぎていた。そして、そこにいた大きな鰐な気づくのが遅れてしまったのだ。  静かな日向ぼっこを邪魔された鰐は怒り狂い、舟に向かって襲い掛かってきた。イアフメスはとっさに、船底にあった手斧を取って鰐を脅した。その間にラーメスが櫂を握り、岸の方へ逃げようとした。  だが間に合わず、巨大な鰐の体当たりを食らって舟はひっくり返り、二人は投げ出され、そして――。  全ての記憶が繋がった。  水を飲み、一瞬だけ気を失っていたイアフメスが次に目を覚ましたのは、赤黒い泥の中だった。意識を甦らせたのは、体中に走る激痛だった。何とか片腕だけを泥から引き上げながら見下ろした自分の体は、水の中で赤く染まっている。  脇腹のあたりに、食い込んで鈍く光る黒い金属が見えた。日々の仕事で、葦や、三角の茎を持つ”王家の草”を刈るための身近い湾曲した手斧。確かにそれは、少し前まで自分が手にしていた馴染みの道具だった。舟から投げ出された時、それが先に泥に沈み落ち、運悪くその上に腹から覆いかぶさるようにして落ちてしまったのだ。  川の流れとともに血が失われ、意識が遠ざかってゆくのが分かる。痛みを感じていられるうちは、まだいい。指先からしびれ、感覚が無くなっていくのが分かる。このままでは助からない。  なんとか首だけを傾いで見ると、緑の茅が固まって盛り上がった小さな中洲の端に、ラーメスが腰まで水に浸かりながら、草にもたれかかっているのが見えた。傷を負ってはいないようだから、向こうも気を失っているだけだろう。彼らの間には、半分沈みかけた葦の小舟が揺れながら、たゆたっている。  だが、その影に黒いぬらりとしたものが動くのを見て、イアフメスはぞっとした。  さっきの鰐だ。  こんな、海に近い川の下流には滅多に居ないような大きなそれが、葦の合間を獲物に狙いを定めながら、ゆったりと徘徊している。意識を失っているラーメスは、格好の餌だ。  声を出そうとするが、体に力が入らない。  懸命に手を伸ばし、イアフメスは何度も口の中で叫んだ。起きろ、鰐が居る。目を覚まして逃げろ。  だが、焦るほどに体は泥の中に沈み込んでゆく。腹に食い込んだ金属の痛みも忘れて上体を起こしたその時、彼の眼は、すぐ近くの茂みの合間からじっとこちらを見つめている足の長い一羽の鳥の姿を捉えた。首と、翼の半分だけが黒い、優美な三日月形の嘴を持つ朱鷺の姿を。  ”助けてくれ!” 声にならぬ声で、イアフメスは取り澄ました顔の鳥に向かって叫んでいた。相手が誰でもいい。鳥でも、魚でも――気を失っているラーメスをつついて、目を覚まさせてくれるなら。  その時、信じられないことだが、朱鷺が渋々といった様子でゆっくり一つ頷いたのを見た。  つ、と翼を広げると、それは音もなく鰐の頭上を飛び越えて、瞼を閉じたままの少年の傍らに降り立ち、尖った嘴で軽くこめかみを突っついた。ラーメスは小さく呻き声を上げ、鰐は、獲物が動き始めたことを知って舌打ちしながら泥の下へ沈んでゆく。  満ちてくる河の水が耳元でちゃぷちゃぷと微かな音をたて、暗闇が迫ってくる。  まだ太陽(ラー)の沈む時間には早すぎるというのに、世界が暗い。  水しぶきをたてながら、ラーメスが駆け寄って来るのが分かる。何か叫びながら、イアフメスの側にしゃがみ込む。けれどもう、その声は聞こえない。  瞼を閉じる。  覚えているのは――そこまでだった。
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