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【4】生者のならわし
夜明け前、ねぐらに戻って来た黒朱鷺は不機嫌そうな顔で、そこに居座っている人間を睨みつけた。イアフメスは、草の間に埋もれた崩れた社の壁の石に腰掛けて待っていた。
『何故、まだここにいる』
「用事があるからさ。あんたはここに戻って来るだろうと思って」
夜は開け始めたばかりだ。まだ鳥たちも目覚めていない時刻だが、太陽は東の空を白く染め始め、夜を追い払おうとしている。
「頼みがある、あんたが本当に神様なんだったら、俺の家族を守ってやってくれ」
『断る』
黒トキはにべもなく即答し、祠の上で長い翼を畳んだ。
『何故そんな面倒なことをしなければならない。我は個人神ではない。家族神でもない。いうなれば、この村という土地に縛られた、土地の守護霊だ。お守りが欲しければ、どこか適当な神殿へでも行って買ってこい。家族の守り神が欲しければ、家の中に祭壇を作って好きに祀ればよい。』
「そんなこと言わずに、頼むよ。このままじゃ、俺は安心して逝けそうもない」
『断ると言っている。我は人間の頼みなど聞きたくない』
「だけど、あんたは、二度も俺の弟を助けてくれただろ?」
鳥は首を傾いだ。
『……たまたまだ』
それだけ言って、朝日の最初の一条が届くより前に、するりと祠の中に滑りこむ。イアフメスはため息をついて、朝日に浮かび上がる、荒れ果てた社を見回した。
「祈りもしない、捧げ物もしない人間を助ける義理はない、…か」
そう、確かに都合のいい話だった。祖父が亡くなってから今までずっと、父も自分たちも、この祠には何もしてこなかった。それなのに、急に願い事だけ聞いてくれというのでは、聞いてもらえるはずもない。
正直に言えば、生きているうちは、神など本当にいるとは思ってもみなかった。死んだ後、こんな風に世界が変わってしまうことも知らなかった。
死者の行く西の国や死後の楽園の話だって、村の年よりたちから聞いた昔話くらいにしか認識していなかった。もしも信じていたのなら、…せめて、自分もいつかは死ぬのだと判っていたなら、もう少し、真面目にお供えの一つくらいしたかもしれないのだが。
けれど、昨夜のあの様子からして、今、ラーメスを一人にして永遠の旅に出ることは出来そうになかった。
どうすればいいのかと思いあぐねたまま、石積みに区切られた社の境界を出て、村の方へ行ってみようとしたちょうどその時、村の方から続く道を辿ってこちらへやって来る少女に気がついた。長い黒髪を幾本かの三つ編みにして、肩に垂らしている。
ノジュメトだ。
新しい母の連れてきた連れ子、義理の妹。
いつもは笑みの絶えなかった表情は、今は曇り空のように打ち沈み、普段なら明るく輝いていた小麦色の瞳も、足元に向けられたまま。手には籠を下げている。最初は花でも摘みに行くのかと思ったが、緑のそよぐ川べりの方へは行かず、社の前を通りすぎて村外れのほうへ歩いて行く。
気になって、イアフメスは後をつけはじめた。こんな風にこっそりついていくのは気が引けたが、気づかれないのだから仕方がない。
ノジュメトは歩調を変えないまま歩き続け、やがて、村外れの小さな墓地の辺りでようやく足を止めた。
そこは、川辺の水が作る豊かな緑の大地を見下ろすちょっとした高台の麓だった。墓地は、川が増水しても水没しない、川から遠くて人が住むには不便な辺りに作られているのだ。
墓地の周囲は簡素な柵で囲まれているだけで、村の歴史の浅さに比例して、並んでいる墓も数少なかった。けれど、ここに埋められている人たちのことは、一人一人、良く知っている。いちばん最後にここに埋められたのは、三軒隣の若妻の死産した赤ん坊で、その前は、酒を飲み過ぎて川で溺れ死んだ爺さんだった。それよりもっとずっと前には、流行病で死んだノジュメトの父親やイアフメスの母親も、そして十年近く前には、年をとって死んだ祖父も、ここに眠っている。
少女はためらわずに手前の墓の前にしゃがむと、籠からひとつかみの緑をとり出して、丁寧に並べていった。おそらくは、彼女の実父の墓だ。墓の傍らには、茶色く枯れた以前の花の残骸が砂に埋もれかけている。墓参りに来るのは、これが初めてではないのだろう。妹がそんなふうに墓に通っていたことを、イアフメスは今まで知らなかった。
花を配り終えると、ノジュメトは膝を払って背を伸ばし、呟いた。
「もうすぐ、ここに兄さんのお墓も出来る…」
少女は目尻に一粒の涙を浮かべ、両手で顔を覆った。どきりとして、思わずイアフメスは辺りを見回した。
そうだ。自分は死んだのだ。だから、…自分の体も、近いうちにここに埋められる。
よく見ると、その場所はもう決められて、杭を打って印をつけてあった。イアフメスの実母のすぐ近くに。今更のように、自分が「死んだ」ことを実感して、彼はうろたえていた。近いうちに葬儀が行われ、墓が閉ざされ、そしていつかはイアフメスが生きていたことは、遠い昔の思い出になる。
”死者の時は止まったままでも、愛した者たちの時は進み続け、人は生きている限り変わってゆく”
”それを許容と出来たとしても、触れられず話しかけられもしない境遇に、いずれは狂ってしまうのだ”
あの黒朱鷺の言ったことは、きっと、正しい。今のこんな状況が何年も続いたら、イアフメスはきっと、いつか耐えられなくなってしまうだろう。
その時、村の方から少女を呼ぶ声がした。
「ノジュメト!」
少女は慌てて涙を拭い、泣き顔を隠すように僅かに俯きながら振り返る。駆け寄ってくるのは、ラーメスだ。
「やっぱりここだったのか、探したのに」
「ちい兄さん」
少女は、イアフメスを「兄さん」、ラーメスのことは「ちい兄さん」と呼んでいた。今もそう呼んで、彼女は何故か、気まずそうに視線を逸らしていた。
「これから、父さんと葬儀屋に出かけてくるんだよ。その、…兄さんの”処置”のことで」
「やっぱり、簡易な方法になってしまうの?」
「多分」
言っているのは、死体の――イアフメスの身体の処理方法のことだ。死者は防腐処理をして葬られる。だが、その方法に手間をかければかけるほど、必要な経費は跳ね上がり、家計を圧迫する。
今は世の中が少し拙いのだと、父は以前から言っていた。異国人が絶えず国境を脅かし、王様が雇った傭兵たちでは対処しきれなくなりそうだと。いずれ大きな戦争が起きるかもしれないと。
その時に備えて、父は、家族のために蓄えを取っておきたいはずだった。祖父の代がそうしたように、村を捨てて逃げなければならなくなった時や、王様が変わってしばらく役人が来なくなった時のために、穀物や、織物や、それらと引き替えにできる細工物を貯めこんでおかなければならない。そんな大切な時期に、イアフメスは死んでしまったのだ。
「ごめんよ、説得はしたんだけど。でもせめて、いい塩を使ってくれって――」
「やめて」
両手で耳をふさぎながら、少女は目も閉じた。
「…ごめん」
「でも、それならお葬式には出なくてもいいんでしょう? あたしが覚えてるのは、まるで眠ってるみたいだった綺麗な顔の兄さんだけよ。それ以外のものは記憶に残したくないの。あの最後の顔が、あたしの知ってる兄さんの顔よ」
やり取りからして、父はたぶん、一番簡素で安い方法を注文したのだ。まるで魚の干物のように、海の塩で塩漬けにして荒っぽく乾燥させるという方法を。それならさして金はかからないし、しかも、たった十日ですべてが完了する。
イアフメスは、塩漬けにされて黒く干からびていくであろう自分の身体のことを思った。ノジュメトでなくとも、そんなふうに干物にされた自分の姿は、見たいとは思わなかった。
それからも二人は、葬儀の日取りや、これから家族がなすべきことについて事細かに話し合っていた。墓をつくる場所のこと。墓穴掘りにはラーメスも参加すること。父が頼んだ細工師が、死者の冥土の旅のために必要なシャブティ像を一つと護符を一つ、それに短い呪文の巻物を間に合わせてくれること。棺は手配する余裕が無くて、引き伸ばした牛の皮を繋ぎあわせて使うこと。葬儀のあとに墓地の前で振舞われることになっている料理と酒のこと――。
話しながら二人は、村の方に向かって歩きはじめた。この上なく惨めな気分になりながら、イアフメスは二人の後に続いた。父を恨むつもりはない。死んだあとに豪華な葬儀をされたって、別に嬉しくもなんともない。ただ、家族に、こんなふうに手を掛けさせて、悲しい思いまでさせている自分の立場が無かった。
村の入口まで来ると、ラーメスは足を止めた。
「それじゃあ、またあとで。」
小さく頷いて、ノジュメトは兄の去ってゆくのを見送っている。
死者の身体を処理をする”工房”は、ずっと下流の方の、大きな町のはずれにある。人間の内蔵を取り出し、乾燥させ、包帯を巻く作業はひどく臭う。そのために、周囲から隔離された場所に作られているのだ。
少女は、ラーメスが去って、しばらくしてから歩き出す。妹の後ろ姿を見送りながら、イアフメスは、このラーメスとノジュメトの間にわだかまる、どこかぎこちない雰囲気は何なのだろうと不思議に思っていた。
少し前まで、彼らは本当の兄妹のように仲が良かった。それが今日は、手を触れることも、肩を抱くこともなく、視線すら滅多に合わせなかった。
やっぱり、今もそのままなのだ。死の直前、何とかして理由を聞き出そうとしていた問題が、今も、家族の間に引っかかっている。
(これじゃあ、ますます、心置きなく死ねなくなる…)
溜息をつきながら、彼は空を振り仰いだ。死んでから、もう何日も経っている。空を駆ける月の舟は、一体いつまで、自分を待っていてくれるだろう?
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