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【6】守護者の憂鬱
もしも自分がまだ生きていて、ノジュメトの気持ちを知っていたら、その気持ちに応えようと思っただろうか。
次に月が昇るのを待つ間、祠の傍らにもたれかかって、イアフメスはずっと考えていた。舟を出したあの時、弟の気持ちを聴き出せていたら、――もしもあの時、鰐に会わず、自分がまだ生きていたら? どちらにしても、ラーメスか、ノジュメトか、どちらかを傷つけることになっただろう。そして結局は三人とも、ぎくしゃくしたまま生きていくしかなくなったはずだ。
あれから黒朱鷺は、何も言わなかった。社へ戻って来てイアフメスを放り出すなり、すぐさま祠の中へ引っ込んで、それきりだ。
そういえば、イアフメスが死んでから最初に目覚めた場所も祠の中だった。生きていた頃の身体では到底入れなさそうな、小さな祠の入り口をイアフメスは見つめた。死者の霊というのは大きさを自在に変えられるものなのか。もう一度入ってみようと思えば入れるのかもしれないが、古びた鳥の聖体と、カビ臭い狭い祠の中で一日を過ごす気にはなれなかった。
昼が来る前に、昨日までの澄んだ青空は姿を消して、今日は薄雲が空全体に広がりはじめていた。
強い日差しを生む太陽の舟の輝きは弱まり、涼しいせいか、普段のこの時間なら家で日差しを避けているはずの村人たちも川縁に出て、思い思いに過ごしている。生者の世界。魂の宿る肉体を持つ者たちの、もはやイアフメスには交わることの出来ない風景。そして、それを目にするのも、今日が最後になるはずだった。
最後の心残りを終えて、今夜には死者の世界へ旅立つのだ。夜が明け、ここへ戻ってくる前に、黒朱鷺は何度も念を押して彼に約束させた。イアフメスにも、異論は無かった。死者に出来ることなど、もう何も残っていない。
そうして、ぼんやりと過ごしていた時、思いがけず社を訪れた者があった。
ラーメスだ。おっかなびっくり、といった様子で草に埋もれた石積みの境界線の外に立ち、誰にも手入れされずに打ち捨てられたような祠をまじまじと見つめていた。そこが本当に記憶にある祖父の作った社なのかどうかを、確認しようとしているかのようだった。
しばらく立ち尽くしていた少年は、やがて、意を決したように崩れかけた石積みの中へと入ってきた。小脇に抱えていた包を傍らに置き、そっと祠の扉に手を触れる。
「ああ、そこは…」
だが、イアフメスの声が聞こえるわけもない。ラーメスは立て付けの悪くなった扉を苦労して開くと、中に収められた素焼きの細長い壺を見下ろし、しばし、考え込んでいた。それから、両手でそっとそれを取り上げて、壷の表面に積もった埃を払い落とした。黒朱鷺の姿は、そこには無い。或いはどこかに隠れて見守っているのか。
イアフメスは、昨夜、夢枕でラーメスと会話したときに自分が言ったことを思い出していた。
”村外れの祠に祀られている黒朱鷺の神様に、頼み込んだ”。
ラーメスは、目覚めた後も、夢の中で会話した内容を覚えていたのだ。だからここへやって来た。
イアフメスが見ている前で、ラーメスは祠を掃除し、周りの草を刈り取りはじめた。始めた。黙りこくったまま、ときおり額から垂れ落ちる汗を拭いながら。表情はまだ暗く、どこか思いつめたようでもあったが。
そうして昼が過ぎ、夕方が来る前に仕事を終えると、ラーメスは持ってきて脇にどかしておいた包みを開いて、中からお供えのパンをとり出して、祠の前においた。一掴みの乾いた花束も添えて。布を手に、少年はしばし祠を見つめていたが、祈るべき言葉も、神の名も思いつかず、その口は閉ざされたまま。ただ深々と一礼だけをして、踵を返した。
去ってゆく弟の後ろ姿を、イアフメスはずっと、祠の側で見つめていた。
『今日は、雲が出ているな』
日が沈む頃、祠から姿を現した鳥は空を見上げるなり不機嫌そうに言った。
『月の舟が見えないかもしれない』
やっと厄介払い出来るはずだったのに、とでも言いたげな口調で。それから長い脚をしなやかに動かし、首を傾げた。
『なんだ、これは』
祠の周囲は、何年かぶりにきちんと手入れされている。
崩れた石垣はそのままだが、我が物顔に生い茂っていた雑草はすべて刈り取られ、祠の傾いていた扉も直されている。中の蜘蛛の巣や土埃は綺麗に取り払われ、聖体の前には捧げ物がされていた。
「弟が来て、掃除していったんだ。」
イアフメスが言うと、黒朱鷺は、そっけなく言った。
『夢枕の礼か。律儀な奴だ』
「嬉しくないのか?」
『何故、喜ぶ必要がある』
黒朱鷺は捧げ物に見向きもせず、祠の上に飛び乗った。
「神様ってのは、お供えを喜ぶものだと思ってたんだが。それとも、パンは嫌いなのか?」
『そういう問題ではない。』
空を見上げ、ひどく冷たい口調で、それは言う。
『我は人間など嫌いだ。願いを叶えて、感謝の気持ちを貰う――そんな営みにはうんざりだ』
「何故、人間が嫌いなんだ?」
また”何故”と問いかけていることに気づきながらも、イアフメスは、どうしても知りたかった。
「昼の空を飛んだことがない、とも言ってたよな。ただの鳥だったことがない、っていうのは…」
『……。』
てっきり、また見下したような口調で何か言われると思ったのに、そうはならなかった。細い嘴を閉じたまま、しばし沈黙していたトキは、やがて、言った。
『我が生まれたのは、ここより西の果てに在るジェフウトの町。”トート神の町”という意味だ。――そこの神殿の聖池では、我と同じように雛から育てられた聖鳥が多く飼われていた。そう、そこでは、我はただの鳥だった。知恵の神の聖獣として育てられ、やがて殺される運命の家畜だった』
「殺される?」
『売り物の聖体にするためにな』
イアフメスがぽかんとした顔をしているのを見て、黒朱鷺は、見慣れた、憐れむような目つきをした。
『まさか殺さずに、どうやって聖体を作ると思っていたのだ。』
「え、いや…。それは…、だけど…。」
聖体の元になる動物が、どのようにして神殿の手に入るのか考えたこともなかった。聖なる獣を家畜のように育て、人の手で殺すなど。そんなことが許されるとは。
朱鷺は、淡々とした口調で続ける。
『神殿ではそうやって、聖体を作り、護符を求める人間たちに売っているのだ。だから我は、生きていた頃には一度も飛ばなかった。翼の先を切り取られていたからな。商品に逃げられては困るだろう?』
まるで笑むように、嘴を僅かに開く。
『どうした? そんな顔をして。なあに、良いこともあった。餌に不足することはなかった。天敵に狙われることも、冷たい雨風に晒されることも。聖体にされ、神に捧げられるまでは、狭い聖池だけが我の世界だった。そう、あの四角い石造りの、神殿の中庭。睡蓮の香り…、』
そこまで言って、トキは嘴をつぐんだ。月の昇る時刻だった。だが今日に限って東の空低く分厚い黒雲がかかって、夜を進む銀の舟はどこにも見えなかった。
『大気の神め、何をしている。雲を追い散らす風を途絶えさすとは』
腹立たしげに言ったものの、トキはすぐさま、空の高いところは雲が途切れているのに気がついた。月が高く登れば、その光に届く。
『まあいい。まだ時間はある。』
足を折り、祠の上に身体を落ち着けると、鳥は喋りすぎた自分を納得させるようにそう言った。
イアフメスは、恐る恐る祠の上を見上げた。
「――神に捧げられる、って、どういうことなんだ?」
『まだ、その話を続けるのか』
「だってその、気になるから。俺の身体も聖体にされる。あんたより安っぽい方法だけど。そして墓に納められる。それとは違うこと、なんだよな?」
『勿論、違う。我のそれは、他者のために生きる霊になるための儀式だ。聖体を神像の前に並べて神官たちが祈り、神像の力を分け与える――少なくとも、そういうことになっている――そして言うのだ。”これらの獣たちの魂を、知恵の神よ、貴方のしもべとして捧げます。あなたの一部として受け入れ給え”と。』
目を閉じ、鳥は静かに過去を振り返っているようだった。
『そうして我は、神の眷属となった。今の我に。それをお前の祖父が買取り、ここへ持ち帰った。作られた神、買われた守護者、だ。』
「お祖父さんのことも知ってるのか」
イアフメスは、意表を突かれた気がした。朱鷺の聖体を持ち帰ってきたのは確かに今は亡き祖父だった、だが、買われた者自身が、そのことを意識しているとは。
『驚くことはない。この姿になった時から、もうずっと人間たちを見てきたのだ。この村で生まれて死んでいった者たちのことも、みな知っている』
「俺のことも?」
鳥は答えなかったが、そうなのだろう。
「ずっと見ていたのか?」
声も聞こえず、姿も見えず、――今の自分が生きている家族にとってそうであるように、側にいながら誰にも気づかれず、この黒朱鷺は。
『お前の祖父は、幼かったお前たちを何度もここへ連れてきた』
それは朧気に覚えている。
『お前の名が月なのだと言って、月神に祈る者には相応しいとも言った』
――それは、記憶にはない。
だが、
「俺は…あんたに祈らなかった」
『我も祈ってくれと頼んだつもりはない。何より我は、人間が嫌いだ。祈られても応えるつもりなどなかった』
にやりと、確かに黒朱鷺は笑った気がした。
『気に病むことはない。我が、そう望んだのだ。祈られても無視し続けていれば、いずれ我は忘れ去られ、この身体ごと朽ち果てて、消えて行ける。そうでなければ永遠にこの姿に縛られたままなのだ。我を売り飛ばすために育てた人間のためになど、なぜ身を粉にして働いてやらねばならない?』
昂然と首を上げ、トキは厳かに宣言した。
『祈りなど迷惑だ。神として永遠を生きるなど真っ平御免だ。我は忘れ去られて一日も早く朽ち果てたい。分かったか? だから供物など迷惑でしかない。お前は余計なことなど考えずに、さっさとあの世へ行くがよい。』
それきり、どちらからともなく押し黙り、もう口を利くことはなかった。予想に反してその夜、月は一度も姿を表さず、朱鷺も飛び立たず、沈黙のままに時は過ぎていった。
朱鷺が動いたのは、夜明け前だった。
『今日はもう、舟は見えない。雲の向こうに隠れたまま沈んでしまった』
もぞもぞと翼を動かし、祠の上から飛び降りる。低くたれこめ、ますます分厚さを増した雲に覆われた天を恨めしそうに見上げて呟く。
『厄介払いが一日伸びたというわけだ。おまけに今夜は散歩にも行けなかった』
不満げに呟いて、黒朱鷺は祠の中へ姿を消す。イアフメスは、自分が一晩中、一歩も動かなかったことを思い出した。死者は疲れを覚えないのだろうか、肉体を持っていた時と違い、足も背中も痛くならない。眠くなることも、空腹になることも無い。死んでからまだ何日も経っていないはずなのに、なぜだか、もう何十年も経ってしまったような気がしていた。
することもなく、イアフメスはぶらぶらと川縁の方へ歩き出した。雲は相変わらず低く垂れこめているが、一年で最も暑いこの季節、曇ることはあってもまず雨は降らない。もっとも、たとえ雨が降ったところで、死者には濡れて風邪をひく心配は無いのだが。
何か妙なものがあることに気づいたのは、川縁の草むらに近づいた時だった。冠水した畑の端に、壊れて沈みかけた舟が引っかかっている。
毎年、増水期にになると、川は増水して畑をすべて黒々とした水の下に隠してしまう。今はまだ増水の始まる前の季節で、畑と土手の間には、赤茶けて乾いた土が見えている。舟があるのは、そこだった。廃棄されたものとは違う。浅瀬に座礁してうっかり沈めてしまったようにも見えた。
不思議に思って立ち止まっていると、畑の様子を見に来た何人かの村の農夫たちが、同じように舟に気がついて近付いていった。どこかから流れ着いたのかと、軽い気持ちで覗きこんだに違いない。だが、そこに待っていたものは、身の毛もよだつような光景だった。
悲鳴を上げて、農夫が泥の中に尻餅をついた。
「ひっ、け…怪我人だ! 血まみれになってる」
「大変だ、早く手当を――いや、もう駄目か――」
とぎれとぎれに聞こえる声で、イアフメスも何が起きているのかを知った。一人が助けを呼びに村へ走る。
ほどなくして、駆けつけた村の男たちによって舟の中にいた若い男の体が担ぎ出された。村の住人ではなかったが、顔を見た覚えの在る者が村にいて、すぐに身元は知れた。
それは、少し下流にある、隣村の若者だった。漁に出たまま、昨日から帰っていなかったのだという。
家族が駆けつけた時には、哀れな被害者は、竿も魚篭も失って、死の床にいた。失ったのはそれだけではなかった。若者の片足は、無残にも膝のすぐ下で乱暴に食いちぎられて失われていた。
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