【7】復讐

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【7】復讐

 血止めのまじないも薬草も、既に手遅れだった。村人たちに出来たことといえば、荒布で傷口を縛り、泥と血に汚れた顔を拭いてやるくらいだった。隣村の人々が呼ばれ、死者が板に乗せて運ばれてゆくのを、沈痛な面持ちで見送ることしか出来なかった。  「こんな短期間に、二人も死者を送り出すとは」 誰かがぽつりと呟く。たとえ、片方はよその住人だったにせよ、死者を出すということ自体、この小さな村では大事件なのだった。それは何か不吉な予感となって、村人たちの心に暗い影を落とした。  「鰐だ。あの足の傷、よほど大きな鰐にやられたに違いない」  「漁に出ていたそうだ。川に小舟を出して。この間、河で死んだあの子も――」 イアフメスのことが話題に上がると、ラーメスの身体が強張るのが分かった。ノジュメトは蒼白な顔をして耳を塞ごうとしている。父を始めとする工房の人々が集まって、話し合いが持たれた。誰に見咎められることもなく、イアフメスはその中に混じっていた。  父たちは、どうすれば鰐を追い払えるかを相談していた。ここ一週間ほどの間に、村の近くで人の何倍もある大きな鰐を見た者が沢山いる。人を襲う大きな鰐が村の近くを徘徊しているのは確かだ。しばらくは、川に舟を出さないほうがよい。それどころか、小さな子供たちが河に近づかないよう気をつけてやらねばならない。  だが、そろそろ葦の刈り入れの時期だ。仕事をしないというわけにもいかず、何人かでまとまって刈り入れに出るとしても、万が一襲われたら、戦えるだろうか。それに、この先もずっと、鰐が居座り続けたら? 村は”王家の茅”を刈り、紙を仕立てることを生業としている。水辺に近い中洲へは、どうしたって出かけねばならないのだ。  話がまとまるまでに、そう時間はかからなかった。  「鰐を退治しよう。」 それが、結論だった。人の味を覚えた鰐は、また人を襲うだろう。追い払っても、また別の場所で誰かを襲うだけだ。  ちょうど今は、麦の刈り入れも終わり、畑仕事は一段落している農閑期だ。近隣の村に声をかけて、手の開いている農夫に援軍に来てもらおうという話も上がっていた。それで決まると、ある者は武器がわりになる農具や茅刈りの鎌を集めに、別のものは近隣の村への使いに、と、めいめいが散っていった。  イアフメスたちの父は重々しい顔でしばらく足元に視線を落としていたが、やがて、村の世話役に促されて家に戻った。待っている妻や子供たちに、つい今しがた決まったことを伝えるためにだ。イアフメスも、その後についていった。  意外だったのは、普段は暴力ごととなれば真っ先に身を引くようなところのあるラーメスが、今日は違っていたことだ。鰐を退治しに行くと聞いて、少年の目に光が宿った。  「僕も行く」  「お前は家にいろ」  「いやだ。兄さんを殺した奴なんだ。僕が行かなくちゃ」 ラーメスは、頑として言い張った。父は困惑していたが、やがてため息まじりに、足手まといにはなるなよ、とだけ言って背を向けた。ノジュメトは隣の部屋で母の縫い物を手伝いながら、注意深く耳だけをそばだてていた。  そうして次の日の朝、男たちが集められた。そこにイアフメスがまだ居られたのは、前夜も月が見えなかったからだ。だが今夜は、朱鷺が苛立つ心配はないはずだった。空は晴れ渡り、薄紅色に染まる朝もやが東の空をうっすらと覆い隠している。夜まで雲がかかることは無いだろう。  朝日に輝く水面には、いくつもの舟が慎重に漕ぎだしていた。漁師の使う銛を手にして、周囲に注意深く視線を巡らせながら。鰐の隠れていそうな、茅の茂る中洲や岸辺の下草のあたりを慎重に探していく。  「いたぞ!」 大きな声が河辺に響き渡った。岸辺で様子を見守っていた村の女たちの間にも緊張が走る。中洲に近づいた舟の男が手を振って、仲間たちに合図を出した。事前の打ち合わせでは、網を張り巡らし、逃げられないようにして後ろから口枷をはめる手はずになっていた。  他の村人たちの乗る舟が中洲に集まっていく。鰐の巨大な口が開くのが、ちらりと見えた。生きていた時に最後に見た光景は、まだ気を失っている弟に忍び寄ろうとしている、鰐の姿だった。もしもあの時、黒朱鷺が願いを聞き届けてくれなかったら、今頃――  『騒々しいな』 ふいに声がした。振り返ると、白と黒の姿が地面の上に降り立つところだった。  「昼間は飛ばないんじゃなかったのか?」  『こう騒々しいと、落ち着いて眠ってもいられん』 赤い瞳が、中洲のほうに向けられる。  『(ソベク)を退治するつもりか。』 イアフメスは、小さく頷いた。  さっきから、鋭い叫び声が何度も上がっている。鰐の巨体に縄をかけ、水に引きずり込まれまいと懸命に踏ん張る人々の姿が、ひとかたまりの黒い影となって見えた。父も弟も、あの中にいるはずだ。  『愚かなことを。』  「何がだ?」  『安易に退治しようというその発想がだ。鰐はああ見えて臆病な生き物だ。奴らが襲うのは身動きしない、死んでいるか、死んでいるようにみえる生き物ばかりだ。他には気を失っている者、水辺で呆けている者――』  「でも、漁に出た隣村の人を襲った」 むっとして、イアフメスはやり返した。  「俺の弟もだ。人が襲われて、殺されたんだぞ」  『おおかた、舟の上で居眠りでもしていたんだろう』 黒朱鷺は、他人ごとのように言う。  「村の誰かが、また殺されるかもしれない…」 その頃にはもう、川の方から聞こえてくる声は、ほとんど悲鳴に変わっていた。中洲でもみ合う人間と鰐は、遠目に見ても、人間のほうが形勢不利になりつつあるのが見て取れた。藁を編んだ縄は千切れ飛び、尾の一振りで吹っ飛ばされた仲間を助けようと、水しぶきの中で男たちは懸命に、鰐の注意を惹きつけようとしていた。  イアフメスは、いてもたっても居られなかった。  『どこへ行く?」 川の方へ歩き出すイアフメスの後ろから、朱鷺が声をかける。  『行ってどうする。お前に何が出来る』 言われて、イアフメスは足を止めた。そのとおりだ。何が出来る?何も出来ない。死者は、ただ見ていることしか出来ない。拳を握りしめても手のひらに食い込む爪の痛みを感じることはなく、どれだけ叫んでも声は届かない。  その時、鰐を縛り付けていた最後の縄が、大きな音を立ててちぎれ飛んだ。水面にきらめいた朝の光が水しぶきに反射して、最後まで歯を食いしばって綱を握って耐えていた、見慣れた姿が水の中に一緒に引きずり込まれるのが、はっきりと見えた。  「ラーメス!」 イアフメスは、思わず叫んだ。岸辺で固唾を飲んで見守っていた女たちの間から、悲鳴に似た声が上がった。川に飛び込もうとして、他の女たちに抑えこまれている少女が見えた。ノジュメトだ。蒼白な顔をして、ラーメスの名を叫びながら腕を振りかざしている。  もう、我慢出来なかった。  イアフメスは、振り返って朱鷺に詰め寄った。  「弟を助けてくれ。あいつは、あんたに供え物をした」  『三度目か…』 うんざりしたような顔。  『無理だ。あの鰐は、ただの獣ではない。上流の神殿からやって来た、鰐神(ソベク)の眷属なのだ。追い払うくらいは出来ても、それ以上はどうにもならん』  「そんなことはどうでもいい。頼む、なんとかしてくれ」 縄はラーメスに絡みついて、逃げようとする鰐に引きずられて水に沈みそうになっていた。男たちは縄を懸命に掴んで、ラーメスを逃がそうとしている。だが水の中では鰐のほうが力が強い。間もなく、ラーメスは完全に水に沈みこんでしまうだろう。そうなったら、鰐に引きずられて、川底のどこかで溺れ死んでしまう。  「頼む!」  『無理なものは、無理だ』  「弟が死んだら、あんたを恨んでやる。」  『…何?』 去りかけていた朱鷺は足を止め、燃えるような視線で自分を見つめる人間のほうに首を向けた。  『神を恨めば、本当に悪霊になってしまうぞ』  「構うもんか。そうなったら、あんたは俺を始末して厄介事を片付けるんだろう? あんたがそう望むんだ。あいつを助けてくれないなら、俺は絶対にあんたを許さない!」  『…人間風情が』 黒朱鷺もまた、赤く燃える眼をして、イアフメスを睨みつけていた。  『身勝手な人間め。己り都合のために神を作り、欲望のために売り払い、今また我を思い通りに利用しようというのか。用が済めば打ち捨てられるこの我を!』 吐き捨てるように言い、飛び立とうとする鳥の足に飛びついて、イアフメスは必死で逃がすまいとした。半透明な朱鷺の身体は意外にも炎のように熱かった。熱に溶かされて、身体が崩れていくような感覚があった。朱鷺は羽をばたつかせ、少年の腕から逃れようと身体をよじる。  『離せ! 命なき存在が不用心に神に触れて、ただで済むと思うのか』  「思っちゃいない。俺なんてどうなったっていいんだ。だから、あいつを――ラーメスを助けてくれ!」 悲鳴が嗚咽に変わり、喧騒が沈黙に変わる。既にラーメスの姿は見えなくなっていた。  中洲の水際には、どす黒い血の染みが広がりはじめていた。父は泥の中にがくりと膝をつき、弱々しい声で何度か息子の名を呼んだ。鰐の姿はもう見えない。縄はほどけて、ちぎれた端が水の上に浮かんでいる。小さなあぶく気が一つか、二つ、水面に浮かんできて消えた。  力なく落ちたイアフメスの腕を長い嘴で押しのけて、鳥は、首を振りながら身体を滑らせた。  『…全く、強情な人間めが』 実際は乱れているわけでもない半透明な羽を、嘴でそっと整える仕草をする。  その時、水辺でわっと声が上がった。  「いたぞ、あそこだ!」 泳ぎの得意な者が何人か、水面に浮かび上がった少年めがけて一斉に飛び込んだ。振り返ったイアフメスは、霞む目で、小舟に押し上げられる弟の姿を見つめた。生きている。泥で汚れてはいるが、確かに生きている。手には固く銛を握りしめたまま、その銛の先には、真新しい鰐の皮膚と血糊の跡が、川の流れにも洗い流されずに、まだべったりと絡みついていた。  舟が岸辺につくと、ぐったりしたラーメスの身体は待ち構えていた母と妹の手に渡された。  「なんであんな無茶をしたの!」 母はいつものように、大げさなほど涙を見せていた。  「ごめん…」 母のすぐ側で涙を一杯に溜めているノジュメトに気づいて、ラーメスは俯いた。  「仇をうちたかったんだ。あいつのせいで、兄さんは。イアフメスは…」 それだけ言ったところで、言葉が詰まった。それ以上は言う必要もなかった。ノジュメトはラーメスの首に腕を回し、しっかりと抱きしめた。  もう大丈夫だろう。  些細な誤解もすれ違いも、互いの交わらない思いも、きっと時が解決してくれる。ラーメスは、一人でも生きて生ける。  そう思ったとたん、気持ちから力が抜けて、イアフメスは目を閉じた。命を失ってから初めて、心から眠りたいと思った。まだ太陽は高くにあるというのに、意識のどこかでは、夜空を駆ける月の舟の風をはらんだ銀の帆と、規則正しく動く櫂の動きを見ていた――。
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