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【8】飛べない魂
葬儀の日はよく晴れて、相変わらず強い太陽の光が照りつけていた。
間もなく。川の水位が上がり始める季節だ。中洲の茅は収穫の最盛期を迎え、村は大忙しだ。そんな時期だから、葬儀はささやかに、しかし村人の大半が出席して行われた。
いったん家に運ばれた処理済みの遺体は、牛皮で作った水を防ぐ袋に詰め込まれ、用意した護符を添えられた。そして板に載せられて、泣き女たち――母と近隣の村の年老いた女たちの鳥の声のような甲高い鳴き声に送られて、巌のような顔をした父とラーメス、遺体のほうを見ないよう足元だけを見つめて唇を一文字に結んだノジュメトに付き添われて、村の外にある墓地に到着した。
今やイアフメスの身体も聖体となって、熱い砂の下に収められるのを待つばかりとなっていた。
今更、悲しくもなければ怖くもなかった。塩漬けで処理されたミイラの顔は、思っていたほど酷くはなく、黒くひからびてまるで別人のようだった。水気を失った細い手足をくるむ包帯はしっかりと結び合わされ、その上に、ノジュメトの編んだ花輪が添えられている。しかし今や革袋の中に収められたそれらも、砂に覆われ、永遠に隠されようとしている。
最後の砂がかけられ、小さな石造りの墓標が建てられると、参会者たちは墓の前に天幕を張り、敷物を広げ、家族の用意した酒と食べ物をつまみはじめた。墓の前にも、一人分の食べ物と飲み物が取り分けられている。
イアフメスは、そこに腰を下ろした。
これは自分のために開かれている宴。別れの儀式だ。
母とノジュメトは、村人たちの間を忙しく行き来し、麦とナツメヤシで作った酒を注いで回っていた。父は村人たちと何か語り合い、ラーメスは、父の傍らで、ただじっとそれを聞いている。
大鰐を倒した武勇を褒め称えられても、ラーメスは少しも嬉しそうな顔はしなかった。鰐を殺したところで、失われた命は戻ってこない。それに、仇だなどと言ってみても、イアフメスが死んだのは直接的には鰐のせいではなかった。あれは不幸な事故だった。強いて言えば、イアフメス自身の不運と不注意が原因だったのだ。
あるいは鰐の死体を水から引き上げたあとに発覚した、不吉な予兆のことを考えているのかもしれなかった。腹を割いて胃の中を調べてみると、そこからは、つい先日死んだ若者の脚だけでなく、何人もの人間の身体の一部が発見されたのだ。
それらの大半は、ひどく傷ついて、ほとんど人間の姿をとどめていなかった。
腐敗しかかり、目を覆いたくなるような状態の中、かろうじて分かったことは、鰐が食べた人間の多くは異国人だということだった。この国に攻め入ろうとしている異国の兵が水辺に潜んでいるという噂は、もう随分前から耳にしていた。武器の欠片も見つかった。主要な犠牲者が、中洲で眠りについていた無防備な異国の兵たちだったというのは、ほとんど間違いのないことだった。
それ見たことか、と、あの黒朱鷺は言っただろう。鰐神の眷属である大鰐は、敵の異国人を打ち倒し、中洲の住人を守ってくれていたのだと。
川のそばで居眠りをするような不注意な人間でなければ、襲われて食われることも無かったのにと。それなのに、無知な人間は身勝手にも守り神の聖なる獣を、自分たちの狭量でもって悪と判断し、殺してしまった――。
気取って長い嘴を振りながら言う姿が目に浮かぶようで、イアフメスは思わず口元に笑みを浮かべた。いつしか、あの鳥が言うだろうことは、だいたい見当がつくようになっていた。
最後の宴が終わると、参列者たちは父と弟を連れて村へ帰っていった。食べ残しや食器を片付けている母と妹を後に残して、イアフメスもその後に続いた。もう日が傾いている。帰らなくては。そう、帰る場所はここではなく、家でもない。
朱鷺の神の社に帰り着くと、鳥は不機嫌な顔で既に祠の前にいた。
あれから何度もラーメスがお参りのためにやって来て、そのたびに、社は少しずつ綺麗になっていた。生い茂っていた雑草も、崩れかけていた境界の壁も直されて、今では見違えるようだった。祠の前には真新しい貢物が供えられている。
『自分の葬儀は終わったのか』
聞かれて、イアフメスは小さく頷いた。
「これで俺は、今日から悪霊ってわけか?」
『いまのところは、まだ、だな』
鳥は、諦めにも似た口調で言って、ふいと視線を逸らした。
『――或いは、もっと悪いものになろうとしているのかもしれんぞ』
あの日から、月を見上げてももう、招くような銀の道が伸びてくることはなくなっていた。
鰐が倒されたあの後、目覚めると、また祠の中にいた。
扉の合間から漏れる細い光に気がついて外へ出ると、ちょうど月が昇ってくるところだった。黒朱鷺の姿はなく、イアフメスは見るともなしに月を見上げていた。既に心残りは無くなり、迎えの手を差し伸べられれば、大人しくついていくつもりだった。
けれど、既に欠け始めた月は何も言わず、銀の光を纏うこともなく、彼の頭上を素通りしていった。
葬儀の日まではまだ時間があった。死者の国へ下る猶予は尽きていないはずだった。
それなのに、あくる日も、またあくる日も、月は素知らぬ顔をして、イアフメスの頭上を通り過ぎた。
そして月がいっそう細くなり、もう夜の間には姿を見せなくなると、彼はもう、空を見上げるのを止め、月の舟を待たなくなっていた。見捨てられたのだと思った。神を脅し、呪ってやろうなどと少しでも考えた愚かな人間の魂には、月の舟に乗る資格は無いのだと。
黒朱鷺は、何も言わなかった。
イアフメスも、何も聞かなかった。ただ毎日、ここへ戻って来る。神の住処である此処に居られる間はまだ、自分は悪霊にはなっていない。ここに踏み入ることの出来る間は、自分はこの世界に存在を許されているのだと思いながら。そして鳥が飛び立つのを見て眠り、夜明けに鳥の戻ってくる音で目を覚まし、村の風景を眺めに出かけた。触れることも叶わない、かつて自分のいた、今は自分の居ない、その風景を、ただ眺めるために。
そうやって、いつもはイアフメスの戻るのと入れ替わりに飛び立ってゆく鳥は、今日は飛び立つ気配を見せなかった。
行かないのか、と問う前に、朱鷺は嘴を開いて言った。
『今日は新月だからな』
そう、確かにそのはずだった。月齢が巡り、今日は月の見えない闇空の日だ。星々が深い紺色の衣をまとった天の女神の身体を覆い尽くし、天の川が白く、くっきりと浮かび上がっている。
『月神の光の届かない、こんな夜には悪霊は最も力を増すという』
そう言って、黒朱鷺は首をちょっと傾けた。『試してみるか?』
「遠慮する。」
答えて、イアフメスは社の側に一つ残されていた大きめの石に腰を下ろした。もう疲れることはないのだったが、生きていた頃の癖はなかなか抜けなかった。空を見上げると、無数の星々のきらめきが見えた。赤く燃え立つ戦神の星、金色にきらめく愛の女神の星。
そういえば、最初に見た時より、鳥の姿はくっきりと闇の中に浮かび上がっている。
以前は黒い翼の先が闇に溶けるように半透明の薄ぼんやりした姿をしていたのが、今はうっすらとした光にさえ包まれて、神々しさの片鱗すら感じる。このところ、祠を訪れる村人が増えている。そのせいかもしれない。
ラーメスのせいだ。大鰐を退治したあと、村人たちはそれが何かの奇跡によるものだと考えた。そして、少年が村外れの忘れ去られた社に通っていることに気づいたのだ。
狭い村のことだ。隣人の動向はすぐに知れる。
かくて祠に祀られた古い聖体は、霊験あらたかな神の器として祀り直され、今も朱鷺の足元には、今朝供えられたばかりの真新しい花輪と、水を入れた器が置かれている。
イアフメスが見つめていると、唐突に、鳥は言った。
『星々の別の名前を知っているか』
「? いや」
『”疲れを知らぬ者たち”、と言うのだ。彼らははるかな昔から、ああして夜空を規則正しく旅をする。片時も休むことなく、地平線から地平線へとな。彼らは昼間も旅をしているのだ。陽の光が強すぎて、その姿を覆い隠しているだけで。――ちなみに、あの中に一つだけ、決して動かぬ星がある。どれだか知っているか?』
イアフメスが首をふると、朱鷺は北の天を見上げて、嘴の先で天の中心を指した。
『あれだ』
そこには、ひときわ明るく、やや赤みを帯びて輝く一つの星があった。
『あれが”不滅の星”、周囲を巡る星々を従えて輝くもの。あの向うには、天の死者の国がある、という』
「あの向うにも?」
『魂は鳥の姿となって空を飛ぶことが出来る。鳥たちは、古い時代には、あの星を目指して飛んだ、という。少しでも星々に近づこうとして作られたのが、いにしえの王たちの石造りの階段だ。実際に見たことは無いがな』
イアフメスは、眉を寄せた。何故、この鳥は、そんなことを話すのだろう。
「その国は、地下にあるという永遠の園とは違うものなのか? 天にも死者の国があるなんて、聞いたことがない。死者の国は西の果ての、沙漠の果ての地下にあると思っていた。」
『さあな。同じものかもしれんし、別なのかもしれん。死者の国のことは、行ってみなければ分からない』
鳥と、少年の視線が合った。そして、どちらからともなく小さな声をたてて笑った。
「俺とあんたはどっちも、死んでるくせに死者の国に行ったこともないはぐれ者ってわけだ。」
『しかも我は、お前のせいでもうしばらく、自由になれそうもない。あのまま忘れ去られて数十年もすれば、聖体が朽ちて、自由になれただろうに。まったく、余計なことをしてくれたものだ。本当に余計なことを』
言葉だけは怒っていたが、朱鷺の声は穏やかで、どこか哀愁を帯びていた。
『行こうと思えば、お前は行ける。あの空の彼方へ。』
遠い目をして、黒朱鷺は静かに呟いた。赤い外輪に縁取られた茶色な瞳が、不意に寂しげに細められた。
『試してみたことはないが、不滅なる星に向かって飛べば扉が開くという。たとえ月の舟に乗れなくとも――』
「あんたは、――」
その一瞬で、イアフメスは悟ってしまった。
永遠の孤独――。
「俺は、まだ行かないよ。」
『言っただろう。迷い霊は、いつか悪霊に変わるのだと。家族が変わっていくのを、ただ見続けることしか出来ないのは辛いぞ。それに、愛した者たちも死に、お前を知る者は誰もいなくなる』
「でも、あんたは俺のことを知ってる。俺もあんたを知ってる。」
朱鷺は驚いたように目を見開き、少年を見つめたが、すぐにふいと視線を逸らしてしまった。そして、それ以上、もう何も言わなかった。
闇に包まれた夜が静かに更けていく。
肉体なき者、永遠の時を生きる者たちにとっては、時間は苦痛ではない。
『…一つだけ、聞いてもいいか』
「何だ?」
イアフメスは、腰掛けていた祠の壁の石の上から聞いた。
『あの時、――弟が大鰐に水の中に引きずり込まれた時、あれは、あんたが助けてくれたからなのか?』
僅かな沈黙。
『何もしていない、お前もお前の弟も信じないだろうがな。あれは偶然だ、我はただ、見ていただけだ。』
「――そうか。」
小さな笑い声。
『人間というのは、実に愚かな生き物だ。信じたいことしか信じようとせず、見たいものしか見ようとしない。都合の悪いことを神に押し付けるかとおもいきや、何もしていないのに勝手にご利益だと大喜びする。それが人間た。神を作り、神を敬い、利用し、育て、あっさりと捨てる、気まぐれで身勝手な生き物――』
その通りだ、とイアフメスは思った。確かにその通りだ。この黒朱鷺の魂を村に縛り付けたのは、人間の身勝手でしかない。昼の空を飛ぶことも、仲間の鳥たちと渡りをすることも出来ない、永遠の孤独の中に。
だが孤独は、癒すことが出来る。
「そういえばさ、あんた、名前はないのか?」
『名前だと?』
「神様には呼び名があるじゃないか。お祈りの時に名前を呼ぶだろ。護符にも名前が書いてある」
『そんなものは、ない』
朱鷺は怪訝そうな顔をしている。
『この緑の茅の村の守護者、それが我の名であり存在だ。知恵の神の眷属、ジェフウトより来たりしもの――』
「ジェフウト、か。ジェフティ。うん、これがいいな」
『何がだ?』
「あんたを呼ぶ時に名前がないと呼びづらいじゃないか。」
『――お前は』
黒朱鷺は、呆れたような口調になった。『これだから人間は意味がわからない』
「いいじゃないか。そういうわけで、あんたはジェフティ、な。俺が呼ぶだけだ、気にするなよ。」
『……。』
もう好きにしろ、と言いたげな顔で、黒朱鷺は羽根を膨らませて細い長い首をその中に埋めた。イアフメスは、膝を抱えて空を見上げた。
北天の星、一晩中輪を描いて巡り続ける不滅なる星々。
あの空の向こうへは、どうすれば行けるのだろう。闇の空の彼方には、本当に、別世界への扉があるのだろうか。
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