【9】予兆

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【9】予兆

 時は流れてゆく。  人の心に出来た傷は、時とともに癒えてゆく。それはあたかも、刈り取られた茅の茎から新しい緑の芽が息吹き、中洲が再び緑に覆われるように。  川の水が増水し、それからまた徐々に引いてゆき、水の下に隠れていた畑が少しずつ姿を現すにつれ、中洲には沢山の鳥達が渡ってきた。あらわになった大地と浅い水の間で魚をついばみ、貝を取る。その側で人間たちは今年の耕作の準備を始め、茅刈りの工房は、そろそろ最後の仕上げに入り始める。これから先、麦の種まきの始まる季節には気温が下がりはじめ、茅が育ちにくくなるからだ。  砂の馴染んだイアフメスの墓の上には、ノジュメトが早摘みの花で編んだ真新しい花輪が供えられている。ノジュメトは、一人で来る時もあれば、ラーメスと一緒のこともある。そして、しばしの祈りを捧げて帰ってゆく。けれど、日常の中でイアフメスの名が語られることは、もう殆ど無くなっていた。今やラーメスが長男だった。そして、居なくなった兄の分まで、父の片腕となって働く役目を背負っていた。  死者の時間は止まったままなのに、生者たちは、過去を置き去りにして変わってゆく。  春には淡かった河辺の緑は、もうすっかり濃い色になっている。照りつける強い日差しの下、工房での紙作りの仕事は、今や最盛期を迎えていた。  今年最後に出荷される紙が、干し棚の上にたくさん並べられている。茅を刈るために毎日川縁へ出ていたラーメスの身体は、日に焼けて以前よりも逞しく引き締まり、かつてはイアフメスよりほんの少し低かった背は、今では兄を追い越している。  それはまるで、月が沈んだことでようやく本来の輝きを取り戻した太陽のようだった。イアフメスと入れ替わったかのように、ラーメスは、生き生きと輝いて見えた。  「ラーメス!」  汗を垂らし、小刀を使って慣れた手つきで水辺で茅の皮を剥いていたラーメスは、名を呼ぶ声に気づいて顔を上げる。道の向こうからやってくるのはノジュメト。いつからか、彼女はもう、ラーメスのことを「ちい兄さん」とは呼ばなくなっていた。  戸口でその日の昼食に食べるビールとパンの入った籠を手渡すノジュメトの笑顔。受け取ったラーメスは、親しげに声をかけ、優しく妹の肩を抱く。二人の間には、もう、危惧していたわだかまりは無い。それが嬉しくもあり、少し、寂しくもあった。  ――”死者の時は止まったままでも、愛した者たちの時は進み続け、人は生きている限り変わってゆく” 黒朱鷺の言葉が蘇ってくる。  ”心配だから、愛しているから、側に居たいから…そう言いながら生者に纏わりついているうちに、いつしか生者に恨みを抱くようになるのだ” それは少しだけ違ったな、とイアフメスは心のなかで呟いた。  相手はラーメス、自分の半身でもある双子の弟だ。弟が元気で生きていること、自分が居なくても一人で前を向いて暮らせていることが、何より嬉しい。恨みなどこれっぼっちも無かった。たとえ自分のことを忘れてしまっても、それで幸せなら、いつまでも過去に囚われるよりも、ずっといい。  けれど、この先も、この平和な暮らしが続くとは、到底思えないのだった。  ここのところ、噂は具体性を帯びてきていた。  東の国境を越えて、アジア方面(セチェト)から敵がやってくると。  それは言葉も風貌も違う、異なる神々を崇める遠い異国の人々で、同盟国だった東の小さな国々は、既に、征服されてしまったと。夥しい数の敵兵が今まさに押し寄せようとしてきていて、この冬までには到着するだろうというのだった。隣村では何人かの若者が、徴兵と称して王家の役人たちに連れられていったという。  そんな話を人々が炉端の木陰や工房の片隅で囁くのを、イアフメスは何度も聞いた。たとえ表向きは平静さを装っていても、ラーメスだって噂は知っているはずだ。  村は平和だ。書類を作るには紙が無くてはならない。その何よりも大事な紙を作る仕事に従事しているこの村の若者たちだけは徴兵されずに済んでいる。村はいつもと変わらないように見えたが、それは、見せかけの平和でもあった。  肉体を失い、死者となった今のイアフメスには、人の目に見えなくなった代わりに人の目には映らない多くのものが見える。  彼は知っていた。月の舟に乗っていたあの沢山の死者たちが何処から来たのか、何故あんなにも疲れ果てて傷ついていたのかを。  徴兵された若者の魂が夜中、道を探すように頼りない足取りで、青白く輝きながら隣村のほうへと去って行ったのも。  東の方で大きな戦があったのだ、と風は囁いた。そして陰鬱な死者の顔が示す通りに、その戦は大敗だったのだ。砦は落とされ、多くの男たちが殺され、女は連れ去られた。砦を守っていた王の息子たちは首を斬られて城壁の外に吊るされた。王たちは都を捨てて逃げることを考えている。いずれ軍は、もっと上流の聖都へも迫るだろう。その先には、全くの絶望しか無かった。  日ましに減ってゆく兵力と、じりじりと後退を続ける戦線と。  村の人々はまだ、気づかない。いや、――気づかないふりをして、けんめいに内心の不安と戦っている。  ただ、月夜にはるか地平線までを見渡す黒朱鷺の目だけは、迫り来る真実を捉えている。  明け方早く、川面から上がる靄の彼方に立派な御座船が姿を現したのは、水位が上がり、中洲のほとんどが水中の姿を消した頃のことだった。  中央に天幕を張り、いっぱいに張った大きな四角い帆いっぱいに風をはらみながら、ゆっくりと河を遡ってゆく。舟の周囲を守り、風がやんだ時は岸辺から綱で引っ張って舟を動かす、おびただしい数の従者たちの往来で、村は目覚めた。  一足早く川縁に走った若者たちは、濃い色の肌をして腰に粗末な布一枚を巻いただけの従者たちが、一言も口を利かずに黙々と船から延びる綱を引き、畑の間を通りすぎてゆくのを見た。腰まで河の水に浸かりながら、脚を泥に染めて、舟とともに上流へと去ってゆく。  御座船が去ってゆくと、まもなくその後ろから、多くの櫂を持つ船が現れた。こちらは兵士たちの船と見え、看板を行き交う甲冑姿の兵士たちが手にした武器のきらめきが岸辺からもはっきりと見て取れた。軍隊なのだ。だが、イアフメスには意味がわからなかった。  見物もそこそこに、彼は社へ取って返し、祠の中で浅い眠りについていた黒朱鷺を揺り起こして見てきたものを話して聞かせた。  「どういうことなんだろう? 戦は東のほうで起きているというのに――東の支流の先へ行かずに、みんな上流へと向かっていた」  『何が不思議なのだ? 知れたことだろう』 気持ちのよい薄暗がりで羽根と首をちぢこめていた黒朱鷺は、つまらない質問のために目覚めさせられたせいか少し不機嫌そうな口調で答えた。  『王の軍は敗けたのだ。生き残りたちが上流の都へ逃げるところだ。』  「敗けた?」 イアフメスは驚いて、再び眠りに落ちようとしている鳥に顔を近づけた。   「敗けたって、どういうことなんだ。異国人が攻めてきているんだろう? どうなるんだ?」  『どうなるも、こうなるも。お前は少しは自分で考えることを覚えたほうがいい。』 細く長い首をすっ、ともたげ、ジェフティは真っ直ぐにイアフメスを見た。  『人が死ぬ。村が死ぬ。勝者が全てを蹂躙し、手に入れる。――ただそれだけだ。古から繰り返されてきた、人間の営みの一つにすぎん』  「でも」イアフメスは言い返した。「王の軍が他国に負けたことなんて、一度だってあったのか?」 正直に言えば、――聞く前から、その質問の答えは、自分でも判っていた。  父や村の年寄りたちは、「王の軍は無敵で、何者にも敗けず、この国が滅びることは決して無い」といつも口をそろえて言っていた。けれど、それは彼らの信じている現実に過ぎない。  ずっとむかし、祖父の時代、この村は戦で焼け出されて今の場所に移ってきた。その時も、王の軍は敗けた。そして中洲の町や村の大半が敵の軍勢に荒らされて、人々は他の場所へ一時的に避難しなくてはならなくなった。そのあと何年かが経ち、中洲が平和になってから、逃げた人々は元のすみかに近い場所に戻ってきた。  父だって知っていたはずなのだ。忘れるはずがないのだから。  『王というのはな』 イアフメスの内心の動揺に気づいているかのように、ゆっくりと朱鷺が口を開いた。  『王なんぞというものは、誰がなっても同じ事だ。誰でもいいのだ。それと国が滅びることは、また別の話なのだ』  「えっ…?」  『王の軍は無敵だ。だが王はいくらでも入れ替わる。神は死ぬ。私たちは滅びる。だが、人間は決して滅びない』 謎かけのように言って、トキは目を閉じた。  『例えばお前は、王が替わったことをどうやって知る?』 答えに窮した。  確かにイアフメスは、今の王の名も知らなかった。  王の役人は毎年、年の始めにやってきて、その年に作る紙の量と質を決め、中洲の茅を見回って帰ってゆく。季節が過ぎれば、出来上がった紙を受け取るためにまたやってきて、引き換えに代金代わりの支給品を置いてゆく。役人の服装は毎年同じで、それを着ている者が変わっていようとも気にしない。一度など、一年の途中で二度目の視察が行われ、紙の生産量が変更されたこともあった。王が代替わりしたのか、国の情勢が変わったのか、理由は知らない。考えてみたこともなかった。  イアフメスたち緑の茅の村の住人にとって、王は役人の向こうに「ただ居る」だけの存在であり、王も役人も、役職に過ぎなかった。同じ服を着ていれば、役人が替わっても気づかないように、同じ王冠をつけていれば、王が替わっても気づかないのだ。  『今いる王が敗けたとしても、別の王が即位するだけだ。人間たちは逃げて生き延びる。そしてまた、いつか戻ってくるかもしれない。この国の何かは変わってしまうかもしれないが、無くなることはない』  「でも、だけど、神が死ぬって、どういうこと?」 神とは不死なる存在、不滅なるものではなかったのか。  『異国の神が来るからだ』  「異国の…神?」  『我々とは全く異なる、相いれぬ存在だ。それらがいずれ、この国の神々を殺し、とって代わるだろう。神はどうやって死ぬ?お前は、もう知っているはずだ』  「……。」 イアフメスは思い出していた。最初にここへ迷い込んだ時のこと。黒朱鷺は永遠の呪縛からの解放を――自らの”神”としての死を――望んでいた。(やしろ)は荒れ果てて、朱鷺の聖体は、供物もないカビくさい祠の中で朽ちてゆこうとしていた。  『人が祈り、欲することが無くなれば、神は死ぬのだ。異国の神々が我々より強いと人が思い、そちらを崇めるようになれば、我々は消え去るだろう。』 そう言ったかと思うと、トキは嘴を閉ざし、静かに目を閉じた。夜までは、まだ時間がある。日は高い空にあり、月神の眷属が空を駆けるにはまだ早いのだ。  イアフメスは社の石垣に腰掛け、緑のヤシの木立の向こうに見える河の流れに目をやりながら、じっと考え込んでいた。  ――戦が始まり、王の軍が敗ける。  ――村が無くなる。  ――神々が消える。 王の軍勢には、この国のありとあらゆる有力な神々がついているはずだ。それでも敗けるのなら、それだけのことなのだ。  父は、もう何年も前からこうなることを予感して、泥煉瓦で作った家の壁の一画に、軽くて高価な品物を隠す壺を埋め込んでいた。いつでも持ち出して逃げられるようにと、兄弟にだけはその場所が教えられていた。  イアフメスは、ただじっと、遠くにある川の流れを見つめ続けていた。  時は流れてゆく。すべての死者を置き去りにして。  異国の軍勢はゆっくりと迫って来る。戦うなど無駄なことだ。命あるものに出来ることは、ただ、逃げ出す準備を整えて、いつでも走り出せるよう周囲に気を配っておくことだけだ。  そして遂に、その夜はやってきた。
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