【10】不滅なる天の果て

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【10】不滅なる天の果て

 それは月明かりの照らす、静かな夜だった。  川べりでは、河馬のと壱岐も、魚たちの跳ねる音さえも聞こえない。風ひとつなく、川の水面は黒い鏡のように夜空を映し出している。水位は一年で高く、普段は見えているはずの道は水の下に隠れ、あらゆる水路に川の氾濫が浸透していた。増水は、本来なら吉兆だった。その年は豊作を約束される。けれど今の時代は同時に、小舟で水路を伝って攻め寄せる敵の侵入を、簡単に中洲の奥まで招き入れてしまうことも意味していた。  銀の舟は夜空をゆく。村は眠りの中にある。  その夜、月があるにも拘わらず黒朱鷺が飛び立たなかったのは、起きつつあることを既に察知していたからなのか、あるいは予知していたからか。  黒朱鷺はただじっと祠の上に座って目を閉じ、何かを覚悟したように時を待っていた。  ふいに静寂が破られたのは、夜半を過ぎようとした頃だった。天鵞絨のような夜の一点が燃え上がり、赤い染みは見るまに水平線を駆け巡った。炎が風を起こし、焦げ臭い匂いが押し寄せて、浅い眠りについていた誰かを現実へ呼び戻した。  「火事だ!火事だ!」 悲鳴にも似た叫び声が次々と上がり、家々から人々が飛び出してくる。火の手が上がっているのは東の方、川向いの中洲の向こうにある町のようだった。幾ら空気の乾いた季節だからといっても、尋常な燃え方ではない。まるで、人の手で油が撒かれたかのようだ。  人々が、このところ囁かれ続けていた噂がついに現実のものとなったのを知るのに、さほど時間はかからなかった。  「敵が、こっちに来る」  「川を渡ってくる。この中州を横切って、きっと西の都へ上がる」 それは確信にも満ちた囁きだった。王国の首都、ザウへたどり着くには、中洲の連なる浅い水を渡って西へ向かう必要がある。中洲に潜ませた密偵からそれを聞き知っていれば、異国の軍勢は、途中にある集落を略奪しながら、――つまり、この村の上も通り越して、最短距離でその都を目指すと思われた。  「村は棄ててゆかねばならない」 父の言葉を、ラーメスはただ呆然として聞いていた。そして、父が壁を壊して中に埋めてあった壺を取り出すのを見ていた。   「牛も連れて行かなくちゃ!」 母は半狂乱になって、悲鳴にも似た声であれも、これもと叫びながら荷物をまとめている。ノジュメトは無言にそれを手伝いながら、時折、思いつめたような顔のラーメスに視線を向けた。  風に乗って、嫌な匂いが村へ流れてくるようになった。家の燃える匂い。獣の燃える匂い。家畜小屋の中で焼け死ぬ牛や羊だけなら、まだ良い。人の焦げる匂い――それは吐き気がするほどの悪臭で、到底耐えられるものではなかった。  口元を覆い、ラーメスはその空想を意識の外に締め出そうとした。気のせいだ。川向うの町の人々は皆無事で、きっともう逃げ出しているに違いない。燃えているのは、きっと墓から掘り出された死体だけだ。  そう思った時、ラーメスの脳裏に、死んだ兄の顔が蘇ってきた。麻布にキツく巻かれて萎びた、最期の顔が。そしてその影は意識の中で、何故かあの社にある、黒朱鷺の聖体に重なっていった。  牛に荷物を括りつけ、あるいはロバに荷車を引かせて、村人たちは次々と中洲を後にする。舟で逃げる者もいれば、川伝いに上流へ向かう者もいる。ラーメスだけは別のことを考えていた。家族が荷物を背負って歩き出したとき、彼だけは、ふいに踵を返した。  「どこへ行く!」  「先に行ってて、父さん。直ぐに追いかけるから」 荷を肩から下げたまま、ラーメスは人混みをかき分け、逆走するようにして走りだした。川縁の畑のほうは薄暗く、木立の作る影が模様を作りながら月明かりの中に落ちている。今この瞬間にも、異国の敵兵はこっそりと水を渡り、村人たちの動向を探ろうと、あるいは持って逃げているものを奪おうと、茂みの中に身を潜めているかもしれないのだ。そう思うと怖かった。だが、ただひとつの思いが恐怖に打ち勝った。  足を急がせ、息を弾ませて丘の上に立った彼は、息を飲んで足を止めた。  「まさか…」 小さな声が思わず口をついて零れた。  「まさか、そんな――」 そしてそれが、その夜、彼の発した最後の言葉となった。  最初の村人が目覚めるより早く、イアフメスは対岸の町に小さな火の手が上がるのに気づいていた。  緋色が紺に取って代わり、喧騒が静寂を凌駕する。死者の耳には、逃げ惑う人々の悲鳴もはっきりと聞こえていた。絶望に満ちて、今まさに死にゆこうとしている断末魔の叫びさえも。隣にいる黒朱鷺も、神の耳でそれを聞いているはずだ。いや、神なればこそ、イアフメスなどよりもっとはっきりと人々の声を聞き、惨劇の光景を見てすらいるのかもしれなかった。  『始まったな』 ぽつり、とそれだけ呟いて、黒朱鷺は祠の上で羽根を繕い始めた。どうするといっても、他にすることもなかったからだ。どうしようもできないもの。逃げようにも逃げられないもの。押し寄せてくる荒々しい炎は、ただ見つめていることしか出来なかった。  『お前は、行かなくていいのか』  「行くって?」  『家族が心配なのだろう』 イアフメスは、首を振った。  『父さんたちなら、きっと大丈夫だ。こうなることは覚悟して準備していたし、行く先も決めているから』 それは、親族の住む下流の漁村だった。何もないひなびた村で、海に面して、潮風が強い。塩水のせいで茅は生えていないし、畑も作れない。そんなところまでやって来る敵兵など、いないはずだった。魚をとり、貝を拾い、運が良ければ、ときどき流れ着く難破船の残骸から掘り出し物を見つけることも出来る。地元の人々ですら滅多に行かないその場所でなら、嵐が通り過ぎるまで安全に隠れていることが出来るはずだった。  「ジェフティ、あんたのほうこそ、どうするんだ」  『どうする、とは?』  「…ごめん、なんでもない」 イアフメスは、社に背を向けた。黒朱鷺の聖体はここにある。この社に縛り付けられ、この村から離れる事は出来ないのだ。  だが――  逆に言えば、この聖体さえあれば、他の場所へでも――…  思考を途切れさせたのは、河辺から近づいてくる不愉快な気配だった。ぴくりと黒朱鷺が反応した。首を低く下げ、じっと闇の中をねめつけている。イアフメスも、同じ方向を見ていた。目の前にいるのは、異国の変わった出で立ちをした数人の兵だった。鈍く光る槍を手に、そろそろと茂みの中から姿を現そうとしている。  武装はしていたが、それはいかにも貧弱な兵だった。夜陰に紛れて小舟で渡ってきたのだろう、サンダルには泥がついていたが、服は濡れていない。浅黒い肌、黒く長々と伸びた髭。そして滑稽なほど派手な布飾り。  彼らは辺りをを見回して、そこが、あまりに何もない小さな村の一画であることに毒づいた。軒を寄せ合っている小さな家々の中に、略奪に値するような高級なものが隠れているようには見えない。畑は小さく、穀物庫すらない。それに、村の先はどこまでも続く葦と茅の草原だ。  けれど目の前には、民家とは違う小さな建物があった。綺麗に掃除され、石造りの壁に囲まれている。神の社だということは、これまで幾つもの集落を襲って来た彼らにはすぐに判った。何か高価な神像でも収められているのかと期待して中を開けてみた兵士たちは失望した。中には、小さな素焼きの壺が一つ、ポツリと置かれているだけだったからだ。  異国の言葉で一人が何か言い、別の一人が笑った。  その小さな建物の前に、捧げ物がされているのに気づいたからだ。異教の神。これから制圧されようとしている異国の、惨めな神。小さな素焼きの壺に詰め込まれたボロ布と、もはや元が何だったかすら分からない干物のような骸。これが神なのか。こんなものに祈って、一体何が得られるというのか。  兵士たちに特段、自分たちの神に対する信念があったわけではない。  彼らはただ、首尾よく獲物を手に入れられなかった腹いせと、その夜の狂った饗宴の最後の締めくくりがしたかっただけなのだ。略奪品を確かめるために灯された松明の明かりが、静かに揺れた。  彼らは何も気づいていなかった。すぐ側で、成すすべなくじっと見つめている二つの魂の存在にも。  ラーメスが駆けつけた時、すべては終わってしまった後だった。  祠はひっくり返され、打ち壊されていた。そして亜麻布を解かれた黒朱鷺の聖体は、兵士たちが放った炎の中で、今まさに燃え尽きようとしていた。  言葉も無いままに、彼は、社の入り口に立ち尽くしていた。社の中にはすえた様な排泄物の匂いが立ち込め、供物は泥にまみれて地面に散らばり、それを成した異国の兵のサンダルの底の跡は、まだくっきりと砂の上に刻み込まれていた。  敵がここに来た。そして今しがた去っていった。――まだ近くにいる、そのことで自分の身に危険が及ぶかもしれないことすら忘れて、ラーメスは揺らめく炎を見つめていた。  「何をしてる」 はっとして、ラーメスは振り返った。  そこには、炎に照らされた懐かしい姿がある。  かつて自分の写し身のようだった、もう一人の少年。今はもう砂の下にあり、神々とともに永遠の楽園へ到達しているはずだった自分の半身。  今の自分よりほんの少しばかり幼く、けれどかつては自分よりほんの少しだけ大人びていた瓜二つのその顔は、去っていった日のままの、澄んだ黒い瞳で見つめ返していた。  「何故ここへ来た? 早く行け。ノジュメトを心配させたいのか?」 口を開きかけたが、言葉が出てこない。ただ涙だけが溢れてくる。  半透明なイアフメスは、怒ったような顔をしたまま、静かに暗い道を指さした。  「あっちへ行くんだ。敵兵は逆の方向へ向かっていった。あっちへ行けば、父さんたちのいるほうへたどり着ける」 少年の肩に黒朱鷺が舞い降りる。長い首をちょっとかしげ、何か囁いた。イアフメスは、頷いて答えた。  「――ああ、そうだな。俺たちも行こう」 踵を返し、ゆっくりと闇に溶けてゆく。炎は踊る。黒朱鷺の聖体の最後の一欠片が灰になり、ラーメスの姿が薄れてゆく。  空には星が輝いている。  そして月も。地上で何が起きていようとも、天は変わらない。そして星々は、今日も定められた航路を回り続ける。  今宵の月の舟は、いつにも増してぎゅうぎゅう詰めだった。心残りを抱え、不慮の死に打ち沈んだ魂たちが、白い顔をして膝を抱えて所狭しと乗っている。  それを横目に見ながら、イアフメスは北天の真ん中を目指して真っ直ぐに飛んでいた。すぐ隣には、黒朱鷺の姿がある。  『どうだ、空を飛ぶというのは?』 いつにない上機嫌で、黒朱鷺が尋ねた。  「悪くないね。自分の翼っていうのがいい。落ちる心配もないし。――ああ、身体がとても軽いんだ。どうしてだろうな」  『未練が断ち切れたからだろう』ジェフティはすぐさま答える。『お前が死を受け入れる気になったからだ。』  「ふうん、そういうものなのか。」  『我も飛べる。あの、狭苦しい村を離れて』 ジェフティは嬉しそうだ。  『身体が軽い――そう、我はもう、永遠に縛られた哀れな霊ではない! 自由だ。どこへだって行ける。好きなように、空を――』 どんどん飛んでいるうちに、水平線が見えてきた。川の、ではない。上流から滔々と流れてくる川の水の尽きた先、緑の中洲ももう見えない黒々とした果てしない水が、その先にあった。  「あれは?」  『”海”だ! あの向うには、また別の世界が広がっているという。見知らぬ神々と、変った人間の住まう世界だ』  「外国ってこと?」  『そうだ。この世界は広いのだ。我も知らぬ、未知の地平が山ほどある――』 水平線は、どこまでも広がっていた。海は黒々と波打ちながら、鼻にツンとする潮風を吹かせている。  振り返ると、東の空がうっすらと明るくなりつつあるのが見えた。  まだ朝には早い。高く飛びすぎたのだ。世界が見える。丸い地平の彼方から、太陽が向かってくる。  中洲の町も村も、敵兵に攻め落とされようとしている都も、はるか遠く、まるで点のようだ。そして、これだけ遠くまでやってきたのに、星々へはまだ手が届かない。  このまま飛び続けたら、一体、どこまで行けるだろう。もし、途中で力尽きたり、先が無くなってしまったら? 北天の星空の向うに、死者のゆく国など無かったら?  だが、不思議と不安はなかった。隣には、ジェフティがいる。この先どんな世界が待っていても、決して一人ではない。  朝日の最初の一条が翼に届いたとき、身体が溶けてゆくような間隔を覚えた。光で魂が見え上がる。世界がふいに真っ白になって、もう何も見えない。  星空も水平線も、すべてが一つに融け合って、そうして魂は世界と一つになる。
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