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雲は嘘をつかないから好きだと、兄は言った。
兄は、優しい人だった。
周りが嫌な気持ちになるようなことを、とことん避ける人だった。妹の私と母が喧嘩していれば間に入ってなだめ、父が落ち込んでいればそっと横にやって来てコップにビールをついであげるような人だった。
人の愚痴をよく聞いてくれるくせに、自分からは一切愚痴を言わない人だった。私がクラスの嫌な奴の話をするとそうかそうかそれはひどい奴だなと何十分でも付き合ってくれるくせに、最近どう? 頑張ってる? と母に聞かれた時の反応は、
「ぼちぼちだよ」
の一言だけだった。泣きも怒りもせず、肩をすくめただけだった。
だから、兄が仕事で追い詰められていることは、父も母も知らなかった。
ある夜、トイレに起きた私は部屋に戻る途中、玄関の扉が閉まる音を聞いた。どうやら兄がコンビニかどこかへ出かけたようだった。見ると、兄の部屋の扉が半開きになっているのに気が付いた。中を覗くと、暗い部屋の中にノートパソコンの画面がぼんやりと浮かんでいた。
なんとなく部屋に足を踏み入れ、ノートパソコンの画面を見た私は絶句した。職場から兄へ宛てられたメールが山のようにフォルダに詰まっていた。そしてそこには、およそ想像しうる限りの悪口雑言が並べられていたのだ。その内容は事務連絡というには明らかに不必要な叱責やなじりをふんだんに含み、事情を知らない私にもほとんど言いがかりにしか見えないほど荒唐無稽な、しかし確実に受け手を傷つけるような文章が際限なく書き連ねられていた。兄は一つ一つのメールに対してなんとか丸く収められるような返信をしていたが、それに対する反応は全くの支離滅裂で、兄が丁寧に綴った言葉を揚げ足取りにしてそこから更に兄の無能さ、容量の悪さを指摘するような文面しか返って来ていなかった。
はっとして机を見ると、そこには大量の資料、資料、資料。持ち帰り残業というものを言葉としてしか知らない大学生の私にも、その状況がいかに異常かは分かった。兄が作ったと思われるそれらの資料には、赤ペンでメールと同じような語調の指摘文が全ページもれなく書き殴られていた。ペンの筆圧で破れたページを見た時、私は吐き気を覚えた。机に散らばった資料一枚一枚が兄の悲鳴のようで、そこに刻まれた赤いペンは生々しい傷跡のようだった。
玄関からガチャリという音がして、兄が帰ってきた。我に返った私は部屋のドアの陰に身を隠し、兄が入って来るのと入れ違いにすり抜けるようにして廊下へ出た。普段周りに敏感なはずの兄は、私に全く気付かなかった。ドアが閉まる刹那、兄の手に下がったビニール袋に、お酒と栄養ドリンクの瓶が詰まっているのが見えた。
私はその時見たことを、誰にも言えなかった。兄が置かれたあの壮絶な環境をどんな言葉で言い表せば良いのか分からなかったし、何より当の兄が誰にも話さずにいることを、自分が話せる道理が見つからなかった。
それから少しして、兄は何日か会社を休んだ。有給を消化しきれなさそうだったからまとめてとってきたと説明していたが、実際は休職中であることを私はなんとなく感じ取ってしまった。兄は居間のソファでテレビを見ているときも常にスマホを傍に置き、通知音が鳴ると誰にも分からないくらい僅かに、でも私には見えるくらいはっきりと身体をこわばらせ、会社からの連絡でないことを確認するとふーっと息を吐きだしてまたぼんやりとテレビを眺めていた。
有給という嘘はそう長くは使えず、そのうち兄は仕事へ行くふりをし始めた。きちんとシャツを着て通勤カバンを提げて、行ってきますと言って玄関を出た兄は駅とは反対方向へ向かい、普段は使わない路線の駅前にあるネットカフェに入っていった。私が大学から帰って来る時間帯にもまだ家におらず、夜8時くらいになってやっと帰ってきた。最近遅いわねと母に聞かれると、担当しているプロジェクトが立て込んでて、と困ったような顔で言った。そしてそういう嘘をついた日の夜中は必ず、トイレで誰にも見つからないように吐いているのだった。兄は優しい人だった。
やがてネットカフェに行くお金が無くなり、駅の反対側にある山へ兄がふらふらと入っていくようになったのは、7月も終わりの頃だった。
ある日、大学が夏休みで留守番をしていた私は、誰かが帰って来た気配で目を覚ました。
時刻は午後5時。ヒグラシの残響と夕方の気怠い暑さがまとわりついている。玄関を見ると茜色の光の中で、兄がぼーっと立っていた。
「おかえり」
兄はああ、とだけ言ってぼんやりと靴を脱ぎ始めた。その時、兄の履いている革靴がしっとりと濡れていることに気が付いた。
「雨、降ってた?」
兄は何も言わず、濡れた靴下を脱いで玄関を上がった。よく見るとズボンもベルトもシャツも、そして髪の毛も湿気を帯びていた。昼寝している間に雨音を聞いたような覚えは無いし、汗にしても不自然だった。
兄はそのまま自分の部屋の前まで歩いたところで立ち止まり、私を振り返った。
「…あのさ、」
兄は私に呼びかけるような、一方で自分の意識をそこに引き留めるような声で言った。
「笑わないで、ほしいんだけど」
私は兄の朧げな視線を見つめ、うん、と答えた。兄は言葉を選ぶような、でも選ぶ言葉はこれしかないというような表情で、ゆっくりと言った。
「俺、さっきまで、入道雲になってたんだ」
兄は、玄関の茜色を映した眼で私を見た。
* * * * *
俺さ、駅の向こう側にある山に入っていったんだよ。
特に何を目指してたわけじゃなくて、強いて言えば何もないところへ行きたかったのかな。舗装された、誰もいない山道をふらふらと登って行って、あっちも森だ、こっちも森だってうろうろしているうちに、山道から外れてた。
あ、これ遭難したのかな、別にいいかなんて考えてたらさ、ふと足が地面を踏まなくなったんだ。
一瞬、崖から落ちる! と思ったんだけど、周りを見たらただの平らな森でさ、で、足元を見たら、自分の足が宙に浮いてたんだ。
それで、そのうち身体ごとふわーって浮いてきて、しかも段々白いもやみたいなのが身体にまとわりついてくるんだよ。もやはどんどん増えていって、ついに辺り一面が真っ白になった時、急に身体がぐぐぐっと引き延ばされるような感じがしたんだ。
それと同時に、一番近くにあった木がすごい勢いで縮み始めて、一体何が起こってるんだろうと思ったら、突然目の前が真っ青になったんだ。
そこは、空の上だった。
真っ青な空の中に、俺は真っ白な身体で、でっかい雲になって山を見下ろしていたんだ。
太陽が、眼と鼻の先にあった。
足元を見ると、自分が今までいた山はもちろん、駅も家もそこにいる人たちも、豆粒みたいに小さく見えた。それでも目を凝らすと、1人1人の顔がくっきり頭の中に浮かんでくるんだ。不思議だろ。
俺はしばらく空から世界を眺めてた。何も考える必要がなくて、誰も俺を見咎めなくて。
すごく……静かだった。
気が付いたら、陽の傾いた山道で地面に這いつくばってたんだ。
どういう道を通って戻って来たのか、全然覚えてないんだけどさ。でも山に入ってから結構な時間が経ってて、それまで俺何してたんだろうって考えても、覚えがないんだよ。おまけに服も髪も、すっかり湿ってるんだ。まるで雲の中にいたみたいに。
だから思ったんだ。俺はさっきまで入道雲になって、1人で世界を見下ろしてたんだってさ。
そしてそう思ったら、なんだかとても心地よくなったんだ。
* * * * *
それ以来、兄は山によく入るようになった。
今まで通りシャツを着て通勤カバンを提げて、駅の向こう側へ歩いていく。最初は迷い込むような足取りだったのが、そのうち真っすぐに山を目指して、わき目も振らずに森の中に消えていくようになった。兄が山へ行く日は決まって快晴で、兄が家を出た1時間ほど後に空を見上げると、際限なく青い空に巨大な入道雲がそびえ立っていた。
「雲になるって、すごく爽快な気分なんだな」
兄は言った。
「雲は、全部を見渡せる。見栄を張っている人も、威張っている人も、人を陥れようとしている人も、皆見える。どこに隠れていても見えるんだ。そういう人間に限って、雲から見たら豆粒ほどの大きさにもならないのさ」
「でも、お兄ちゃんは雲じゃない」
私は言った。
「人間は雲にはならないし、人間の身体はひとりでに宙に浮いたりしない。何より、」
私は兄の眼を見据えた。
「お兄ちゃんが雲になってしまう理由がない」
最後の言葉だけは、嘘だった。私も、おそらく兄自身も、兄が自分の意志に反して雲になってしまっているとは思っていなかった。兄は少し考えるような顔をして、それからふっと俯いた。
「そうだな。入道みたいに大きな雲だから、入道雲。俺は雲みたいに大きくなれるし真っ白になれるけど、雲じゃない。どっちかというと雲みたいな入道だ。俺は雲入道だな」
そのうち兄は夜、家に帰ってこなくなった。翌日の夕方頃に帰ってきて、そのまた次の朝、山に向かう。その頃にはもう兄はシャツを着なくなり、通勤カバンも持たなくなった。私は兄が仕事を辞めたことを悟った。
長い時には、3日家を空けることもあった。私はさすがにお兄ちゃんの帰りが遅すぎるんじゃないかと母に訴えた。すると母はしばらく考えこむような様子でお兄ちゃん、お兄ちゃんと呟き、そこでようやく思い出したように言った。
「ああ、お兄ちゃんね……そういえばしばらく見てないわね。友達の所に泊まってるんじゃないかしら」
私は愕然とした。まるで母が兄のことを忘れかけているような口ぶりだったのだ。父に至ってはその横で、今年の甲子園は岡山が強いななどと新聞を手に呟いていた。それは父や母の中から、兄の存在が雲のように朧げになってしまっているかのようだった。
その日、兄は夜遅く帰って来た。しっとりと濡れた髪を乾かそうともせず、台所の冷蔵庫に夕食の残り物の秋刀魚があるのを見ておっと呟いた。
「そろそろ、夏も終わりだな」
私は兄の背中を見つめた。暗い台所で、冷蔵庫の明かりが兄の輪郭をぼやけさせていた。
「……夏が終わったら、どうするの?」
兄はこちらを見た。私の言葉の意味が分からないようだった。
「夏が終わったら、入道雲はなくなるんだよ」
兄は自分の中で何かを噛みしめるようにして、ぼんやりと宙を見た。
「……そうか。そしたら、俺も一緒に消えちゃうかな」
私は思わず、兄の肩を掴んだ。
「俺も? お兄ちゃんは消える必要がない! お兄ちゃんは雲じゃないんだから」
兄はそんな私を見て優しく、でもどこか寂しい眼で微笑んだ。
「何も死んでしまうわけじゃないよ。ただすっと、ここからいなくなるみたいにしてすっと消えてしまうんだ」
そして兄は自分の体を足元からゆっくりと、なぞるように見つめた。
「……生きるよりも、死ぬよりも、よっぽど素敵さ」
兄は冷蔵庫を閉めた。冷蔵庫の明かりでかろうじて見えていた兄の輪郭が消えた。
翌日は曇りだった。
蒸し暑い空気が街を覆い、それは一歩歩くごとに蜘蛛の巣のように身体にまとわりつく。少なくなった蝉の声も、どこか湿っているようなくぐもった響きを残し、時折聴こえる鈍い雷鳴に塗りつぶされていった。
兄は、いつの間にかいなくなっていた。山に行っているのだろうか。兄が山へ行く日は、決まって晴れていたのに。しばらく部屋の中でじっとしていると、ぱし、ぱしと雨粒が窓を打つ音が聞こえてきた。私は廊下に出た。兄の部屋へ行き扉を押す。開いていた。
兄の部屋はすっきりと片付けられていた。部屋の主がいつしか帰らなくなったとしても全く支障がないくらいに片付けられていた。かつて大量の資料に覆われていた机は今や紙切れ一つ無く、代わりに机の隅に白い表紙の本がぽつんと残されていた。
私は白い本を手に取り、開いた。几帳面な文字が並んでいた。
それは兄の日記だった。
* * * * *
8月2日
とても不思議な体験をした。いつものように迷い込んだ山の中で、どうやら俺は入道雲になったようなのだ。
最初は自分の頭がどうかしてしまったのかと思ったが、空の上から小さな、あまりにも小さな街を眺めているうちに、そんなことはどうでもよくなった。空は入道雲の俺を迎えもせず拒みもせず、ただそこにいさせてくれた。それはとても心地よかった。
8月11日
あれから、何度か山に入って入道雲に、いや雲入道になった。山道を外れてあてもなく歩いているうちに、いつのまにか雲入道になって空に浮かんでいるのだ。
雲入道になって見えるものの多さに俺は驚いた。全てが小さく見えるのに、その小さいもの全て、はっきりと見えるのだ。少し背を伸ばしてみると海や水平線までもが遠くに見えてくる。おそらく前にいた会社もそこら辺に見えるのだろうが、わざわざ探すようなものでもないだろう。
8月19日
最近、雲入道になった時によく目につくものがある。それは人の死だ。
普段、周りで人が死んでいることに気が付くことなどほとんどないが、街のあらゆるところで日夜、人が1人、2人と死んでいる。アパートの一室で熱中症になり人知れず息を引き取る人、海水浴場の隅の岩場で溺れて沈んでいく人、そして人目のつかない所で自ら命を絶つ人。
誰にも知られないまま、この街から人が消えていく。もし俺が今この山の中でひっそりと行き倒れてしまったとしても、おそらく同じなのだろう。
8月24日
俺が行先を告げずに出掛けるのを、父も母も見咎めない。もはや仕事に行くようには見えないはずだが、それすら視界に入っていないのだろう。それで良い。俺が山に行ったり雲入道になったりすることが2人に影響を与えてしまうのは全く本意ではない。俺のことなど知らずにいつも通り暮らしていてくれればそれで良い。雲入道になったことを話した妹だけは俺のことを気にかけてくれているようだが、できれば妹にも早く俺のことは忘れてしまってほしい。俺がどこかに行ったり帰ってこなくなったりすることは、俺以外の誰かには関わらなくて良いことだ。
8月28日
夜、夏が終わったらどうするのかと妹が聞いてきた。考えたこともなかったが、言われてみると雲入道は夏にしか存在しえないもので、俺もいつか雲入道でいられなくなる時が来るのだ。雲入道でない俺は何なのだろうと考えた時に思い当たるものが無かったので、それなら俺も夏が終わったら消えてしまうかなと言ったところ、妹は必死な顔で止めてきた。
なぜだろう。
空から雲が一つ消えたところで、困りはしないだろうに。
雲入道でない時の俺は、もう消えかけているというのに。
なぜだろう。
消えるのが少し、怖くなった。
* * * * *
私は日記を机に放りだすと、家を飛び出した。断続的に顔を打つ雨粒はやがて束となり、たちまち土砂降りとなって街に打ち付けた。
私は山へ向かった。山道を登り、兄の気配を探した。
「お兄ちゃーん!」
滝のような雨粒に揺れる木々は、どこかにいるはずの兄の返事を覆い隠すかのごとく視界を阻んだ。
「お兄ちゃーん!!」
返事は無かった。あらゆる轟音に包まれ、そこにいる私の声が、存在が、押し流されてしまうようだった。
ふいに、空を閃光が切り裂いた。
空を仰いだ私は、息を呑んだ。
そこに、兄がいた。
仰いだ空には、鈍色の雲が無限に広がっていた。そしてその雲の中に、雲と全く同じ鈍色の、入道のように巨大な兄の姿があった。
兄は、泣いていた。
叫ぶような顔で兄は泣いていた。その叫びは無数の雨の束となって地面を震わせ、雷鳴となって世界を震わせた。
兄は泣いていた。兄はずっと私に返事をしてくれていた。優しい兄は泣き叫びながら、それでも自分を呼ぶ声にありったけの返事をしてくれていたのだ。
兄の涙は、そのまま夏を洗い流した。
しばらくして、雨は止んだ。
うなだれるように滴る木々の枝の隙間から、澄んだ夕陽がこぼれ落ち始めた。私は山道の真ん中に立ち、じっと前を見つめていた。
切れ切れの夕陽の中から、兄の影が現れた。
兄は全身ずぶ濡れで、足元もおぼつかず俯いたままふらふらと山道を降りてきた。その身体は白くも無ければ鈍色でもなく、ただ兄の色をしていた。
「お兄ちゃん」
私は兄に駆け寄った。兄は私をぼんやりと見つめ、深く息をついた。
「……あんなに泣いたこと、今まで無かったな」
そして兄は顔を上げた。
「なあ、」
今度は確かに、確かに私の眼を見て、兄は言った。
「俺、生きててもいいよな」
さあっと風が吹き、木々の葉に残っていた雨粒を空中に散らした。その一粒一粒に映った兄は、決して朧気ではなく、生ぬるい夕陽の中にくっきりと立っていた。
「……帰ろう」
私は兄を連れ、山を下りた。兄は俯いたまま山を下り、下りきったところでふと空を見た。呆れるほどの茜色をした空に、まるで大きな雲からちぎれて散ってきたような形の小さな雲が点々と浮かんでいた。兄はそれを自分の一部のように優しく見つめ、そしてふっと微笑んだ。
「雲は嘘をつかないから、好きだ」
兄が雲入道になることは、それから二度と無かった。
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