学年一位の呪縛

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学年一位の呪縛

 午前8時50分。  ──数学ⅢCの前期・期末試験が始まるまで、あと5分。  しんとした教室の中で、エアコンの機械音がひどく耳障りに聞こえる。  試験用紙は既に配られていた。問題用紙、答案用紙、計算用紙。山城綾香(やましろあやか)はそれらを一瞥し、壁の丸時計を睨んだ。  チャンスはいましかない。試験が始まり、答案用紙に何かしら記入してからでは遅いのだ。解く前に、始まる前に、試験を受けられない状況を作らなければ。でなければ、棄権扱いにならない。  綾香は決めていた。  今日の数学ⅢCの期末試験は受けない。  受けずに、前回の7割の点数をもらう。  綾香が通う清涼高校では、体調不良で定期試験を受験できなかった生徒への救済措置が用意してある。受験できなかった教科をゼロ点扱いにするのではなく、前回の定期試験で受験した同教科の点数の7割を今回の試験点数とみなす、というものである。たとえば前回100点を取っていたとすると、その7割、今回は70点をもらえるわけである。  綾香の前回の点数は86点だった。仮に綾香が今回の試験を棄権した場合、その7割、60点をもらえる。  綾香にとって60点というのは、気が遠くなるほど最低な点数だった。  ──でも、だけど、今回はこの点数で我慢するしかない。  高校1年生から3年の中間試験まで、綾香は学年一位の座をずっと死守してきた。  学年一位の女。それが、同学年、他学年、さらに全教師が認識する綾香の姿だった。もちろん、綾香の両親も……  綾香の両親は「娘は頭の良い子だ」としきりに親族に自慢する。平々凡々の両親から産まれた、天才。トンビが鷹を産んだ。はやしたてる親族に、「もうやめてよ」などとそっけなく返しながら、綾香はこのうえない優越感に浸っていた。一方で、ずくんと胃の辺りがうずくような不安も常に抱えていた。  綾香は知っている。自分は鷹なんかじゃない。  (かえる)の子は蛙。瓜の(つる)茄子(なす)はならぬ。親に似た亀の子。  所詮、自分は平々凡々の両親と同じなのだ。  天才だから、一度授業を聞いただけで試験は満点。そんなふうに振る舞いながらその実、綾香の学年一位の座は、血反吐を吐くような努力で、文字通り死に物狂いでつかみ取ったものだった。涼しい顔で授業を受け、友人たちとバカ騒ぎし、遅くに帰宅。そこから机にかじりつき、夜中2時までひたすら教科書を暗記する。眠くなったらシャーペンを手の甲に刺す。洗面器に氷水を作り、両足を浸ける。綾香には、良い大学に行きたいなどという崇高な目的はない。異常なまでの勉強意欲はすべて、定期試験で学年一位を取る、ただその目的のみに向けられている。  ──狂ってる、と自分でも思う。だけどもう、いまさらどうすることもできない。学年一位を一度取ってしまったからには、あとはひたすらその地位を死守するしかない。一度落ちれば、すべてが終わる。綾香はもう、『学年一位の女』として畏怖(いふ)の対象ではなくなってしまうのだ。  ──そんなの許されない。  努力は十分以上に続けてきた。しかし、努力ではどうにもならない壁に、綾香は今回初めて直面していた。センスという壁である。  数学Ⅰ・Ⅱ・A・Bまではなんとかなった。けれど数学Ⅲ・Cはまったくもって理解できない。公式を暗記しても──解けない。いつものように勉強を続けても、一向に〝わかる〟ようにならないのだ。先生に個人的な授業をしてもらった。それでもだめ。恥をしのんでクラスメイトに相談した。それでもだめ。難しいよね、なんて言いながら、綾香が解けない問題も結局解いてしまう友人たちを前に、焦りは募る。  どうして理系なんかに来てしまったのか。綾香はこの試験勉強中、幾度もなく後悔した。理系に進む友人が多かったから、それだけの理由で選んでしまった進路。定期試験は文系理系合わせて集計され学年順位が出る。試験の内容は理系の方が圧倒的に難しいのに、不公平だ。などと恨み言を言ったところで、いまさら何も変わらない。綾香は数学ⅢCの試験を受けるしかない。でも、わからない。これだけ勉強してるのに、問題が、解けない。  ──20点。よくて30点。それだけしか取れない。5年分遡って解いた期末試験の過去問を採点し、綾香は愕然とその事実を受け入れた。試験まであと3日の時点でこれだ。本番の結果は目に見えていた。  赤点は39点以下。このままでは赤点を取ってしまう。そして、学年一位の座からも確実に落ちる。ほかの教科で90点以上を叩き出しても、数学が必ず足を引っ張る。  綾香がここまで焦っていたのは、本条芹奈(ほんじょうせりな)の影響もある。  二位以下に常に5点以上の差をつけて学年一位に君臨する綾香。しかし前回の中間試験で、本条芹奈が初めて綾香に1.5点差まで迫り二位についた。綾香は驚愕した。  芹奈は「できる」部類ではあったが、学年順位は十位が最高。それが一気に二位に迫ってくるなど、綾香はまったく考えていなかった。いつも一緒にいるこの友人を、警戒すらしていなかった。だからあの発言が出たのかも、当然といえば当然と言える。  中間試験の数学ⅡBで、芹奈は95点を叩き出した。86点の綾香を9点も凌駕して。一位の点数が書き込まれる黒板に、はじめて綾香以外の名前と点数が刻まれた。 「なんで、芹奈が──?」  唖然とつぶやいたそんな言葉が、芹奈をひどく怒らせた──らしい。”らしい”とはっきりしないのは、この話は芹奈本人ではなく、同じグループの他の友人から聞いたからだ。 「自分以外のやつはどうせ全員バカだって見下してるから、あんなことが言えるんだ。『なんで芹奈が私より高い点数とれるの』って、そういうことでしょ? やなかんじ」  そんなふうにこぼしていたという芹奈はあれ以来、綾香に対しどこかよそよそしい。  バカだと見下してなんかいない、と綾香は心の中で思う。むしろ、綾香は自分以外の者を仰ぎ見ていると言っていい。  本当はみんな、自分よりずっと頭が良いのだと綾香は信じている。本気を出されたら、綾香など、大した敵にもならない。前回の数学、芹奈が綾香より9点も高い点数を叩き出したように、どうせすぐに追い抜かれてしまう。自分は天才ではなく努力の人で、そして努力は誰にだってできるのだから、自分は特別でもなんでもない……  どうやら芹奈は良い家庭教師を雇ったらしいと、これも他の友人づてに聞いた。  だとすると、芹奈は今回も良い点数を取るだろう。  なのに私は──  努力はした。でもだめだった。だから決めた。  数学ⅢCの試験は受けない。  前回の試験の7割、60点をもらおう、と。  60点ならば、ほかの教科を頑張ればギリギリ学年一位を守り切ることができるはず。  睨んだ時計は試験開始まであと5分。  ちらりと盗み見た芹奈は、試験用紙に静かに目を落とし、落ち着いているように見えた。  勝ち目はない、と再認識する。  熱が出たことにして、今日、学校自体を休んでしまおうかとも考えた。しかし、今日に予定された他の科目まで休むことはできない。数学の60点以外は、すべて90点以上を取らなければならないのだから。学校は休めない。  だから、過呼吸になったふりをする。  試験開始が告げられる直前に、過呼吸になって、保健室に運ばれて、数学ⅢCの試験のみ棄権する。努力してきたのに、悔しい。そんな壮絶な涙を浮かべて、60点に甘んじる。  この時間だけ。この時間さえ保健室でやり過ごせば、あとは元気になったことにして戻ってくればいい。そして2限目以降の試験は予定通りに受ける。  だから、いま、過呼吸に……  ──しかしいざやろうとすると、身がすくんでなかなか踏み切れない。  せっかくここまで自分の力で頑張ってきたのに、こんな卑怯なことをして、明日から平気な顔で生きていけるだろうか。たった一度の(あやま)ちで、綾香に学年一位を取らせてくれた勉強の神様に永遠に見放されてしまうような気がして、呼吸が浅くなって、手足が冷たくなって、おなかが痛くなる。本当に過呼吸になりそうだ。  ──そう、なればいい。もっと呼吸を浅くして、胸に手を当てて、苦し気に……先生に、異変が伝わるように。  大きく息を吸いこみ、いよいよ苦し気に吐き出そうとした、そのとき。  ガタン、と大きな音が左側から聞こえた。椅子が倒れたような音だった。見ると、本当に椅子が倒れている。そして、生徒も一人、一緒に倒れている。  芹奈だった。前回数学の試験で95点を叩き出し、学年順位も2位に上り詰めた、綾香の最大のライバル。その芹奈が、あえぐように呼吸をしながら、苦し気に胸を押さえて倒れている。先生がすかさずかけよった。 「過呼吸かな?」  誰かが囁くのが聞こえた。  過呼吸。芹奈が過呼吸。 「中条、ゆっくり息をしろ。大丈夫だから。大きく吸うんだ」  本来、そこにいるのは、先生に介抱されるのは、綾香のはずだった。  なのに、芹奈が、過呼吸。  ざわつき、それでも静けさが勝つ教室の中で、芹奈があえぐ。耳障りだったエアコンの機械音は、いまや大げさなほどに荒い芹奈の呼吸音にかき消されている。その刹那(せつな)、目が、合った。一瞬だけ、芹奈が綾香を見た。鈍い光を宿したその瞳を見て、綾香は絶句した。どろりとした確信が、胸を打つ。  ──嘘だ。芹奈は嘘をついている。  綾香の計画を、芹奈が台無しにした。この教室で過呼吸を演じる女優の座を、奪われた。みんなの注目を集める、同情を買う立場を。  ひざ裏で椅子を蹴るように、綾香は立ち上がった。そこからどうするべきなのか、自分でもわからない。  ──本当は苦しくないんでしょ! 過呼吸になった、ふりをしてるだけなんでしょ!  激しい怒りにまかせ、芹奈を罵倒したかった。みんなの前で、卑怯な心根を暴いてやりたかった。しかし何かしらの言葉が綾香の口をつく前に、チャイムが、鳴った。鳴ってしまった。  ハッとしたように、先生が立ち上がる。 「試験を始めてください」  芹奈が先生に肩を支えられ、教室を出て行く。立ちすくんだままの綾香は、先生と芹奈の背中が窓の向こうで消えるまでその姿を目で追いかけた。  紙の擦れる音と、シャーペンの走る音が、全身にまとわりつく。  机の上、白紙の答案用紙が静かに綾香を待っている。  震える綾香は、いつまでも窓の向こうに芹奈の姿を探している。      
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