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きれいに見えるからみんな気づかないけど、常盤さんの指はこれで結構ゴツゴツしている。
ぱっと見じゃまずわからない。関節部が多少ふしくれ立っていたところで、指そのものがこんなにも長いと紛れてしまう。そのうえいつも爪をきれいに整えているから、こんなの僕じゃなければ見落としちゃうと思う。
実は結構男の手してますよねなんて、思い切って微笑みかけてみたこともあった。ちょうど一年前、常盤さんがまだ僕の先輩だった頃の話だ。もっとも僕からすればこの先ずっと先輩だし、それは「先輩」という語の一般的な用法だと思うのだけれど、でも当人がその呼び方を嫌がるのだから仕方がない。お前は部員なんだから部長と呼べとごねる常盤さんに対し、じゃあ退部しますと僕の方からもごね返したあの日。延々と平行線を辿った話し合いの末に、結局行き着いたのが「間をとって在学中だけは許す」という結論だ。いま思えば逆だよねそれって気もするのだけれど、でもどうあれ約束は約束、なによりそれを反故にするだけの勇気が僕にはなかった。
常盤さん、と彼を呼ぶ。年に数回、こういう日にしか目にしないはずのスーツ姿でも、ひと目見た瞬間に彼だとわかった。袖口からすらりと伸びた手の美しさ。声よりも雄弁に僕に呼びかけているかのようで、だから今後も見間違えることはないのだと思う。
「あーもう、トキワさん、じゃあないだろうよお前。何してんだ、っつうか、どこ行ってた」
僕のことをずっと探し回っていたのだろう。足早にこちらへと駆け寄る彼の、その口からこぼれる吐息が白い。なんだか大型犬に似てるなと思って、そして去年も同じことを思ったのを思い出す。グレーのスーツに身を包んだでかい図体。雪の庭をどしどし大股に駆ける、その姿に謎の愛嬌があるのを少しむず痒く感じた。
今日の気温は思いのほか低い。まあ一月のこと、それも午前中ならこんなものと言えなくもないけど、でも予報が外れたのは痛かった。久々の晴れ間と聞いていたのに、頭上にしっかりと垂れ込めた灰色の雲。降ってはないけど、日も差さない。日本海側の冬に特有の空。子供の頃、こちらに越してきたあの日から繰り返し見てきて、でもこればっかりはいまだに慣れない。
——空が見たくて。
そんな理由で納得してもらえるとは思わないけど、でも問われた以上は答えないわけにもいかない。ただ「どこ行ってた」の方はもう答えようがなくて、だって僕はここがどこだか知らない。中庭か何かだろうか? 建物と建物の間、適当に入ってみたらあった開けた空間。こんな真冬には誰も寄り付かないであろう場所で、そのおかげかあたり一面真っ白なままだ。大した量でもなければ綺麗でもない、せいぜい二、三センチ程度のザラメ雪。昨日のうちに薄く積もって、それから一夜かけてたっぷり水分を吸い込んだそれが、まるでシャーベットを押し固めたかのように地面に張り付いている。
「スキー焼け、ってありますよね。積もった雪ってほとんど反射板みたいなものだし、ちょっとでも日の光が欲しかったから」
そのために僕が大回りして避けた白銀の絨毯、お構いなしにざすざす踏み荒らす黒い革靴。それでどうだった、なんて聞くから、僕は思わず小首を傾げる。どうって? 彼は答える。日光浴はできたのか、と。答えはノーだ。ダメだった。残念だけど、この程度の雪じゃまったく役に立たない。
常盤さんはうなずく。そうか、とひとこと、それから僕の手をぐいと強引に掴んで、
「去年も同じことやってたよなお前」
それから、大きく、聞こえよがしなため息。お前には心底呆れ果てたとでも言いたげな顔。嘘ではないけど、正しくもない。本当に呆れた大人はそんな顔しない。一方的に失望をぶつけてくるか、黙って距離を置くだけだ。だから常盤さんのその表情は、僕にとっては密かなお気に入りのひとつ。
「でも常盤さん、ちょっと顔色よくないですね。ちゃんとご飯食べてます? 睡眠は?」
確か大学のそばにひとり暮らしでしたよね、と僕。まあこの人のことだから、まずまともな生活は送れてないなという確信があった。責任感があって仕事も細やか、本当に頼りになる部長だったのだけれど、でもそのぶん自分自身のことには無頓着だと知ったのはいつのことだったか。去年高校を卒業し、そのまま地元の総合大学へ。初年度もほとんど終わりかけだけれど、でもその程度で生活が落ち着くような人じゃない。
「むしろしっかりしてたのは最初の一、二ヶ月だけで、どんどん不規則になってそうですよね」
その適当な追求に、「よくわかったな」と常盤さんは笑う。でもすぐさま「ただ今日に限っちゃ全部お前のせいだけどな」と顔をしかめて、そしてなお強く握られる僕の指先。
「相変わらず、細っそい指しやがってまあ。ていうか爪切れよお前、邪魔だろこれ」
よく怒られないなこんなにしてて、と、その感想はあまりに今更すぎた。僕の爪なら去年と同じ、まだ常盤さんと一緒にお稽古していたあの頃のままで、でもそんなことはまったくお構いなしに、その細い指先を必死でごしごしやり始める彼。
摩擦による加熱。その程度じゃまるで足りないと、そう初めからわかっていたかのように、
「はー」
大きく口を開け、吐きかける息で温める仕草。こんな凛々しい大柄の男がやるには可愛すぎるなと、そういうのを気にかけない性分は昔からだ。
「またひとりで雪合戦でもしてたのか? まあなんでもいいけど、手袋くらいしとけよ次は」
ちゃんと防水のやつな、と妙に注文が細かいのも元々のこと。芯まで冷え切った僕の両手は、やっぱり彼の手のひらにすっぽり収まってしまう程度には頼りなくて、いつもならコンプレックスに感じていたはずのそれを、でも「まあいいか」と思えるのは今日この日くらいだ。
年明け早々、常盤さんの大学に招かれての部活動。
初釜。新年最初のお茶会で、本当なら僕らは僕らで開いていたはずの催しだったのだけれど、でも今年は無理だった。部員が足りない。常盤さんたちが卒業したあと、今年の茶道部には新入部員もなくて、まあ内輪向けの茶会程度ならギリギリ開けなくもないのだけれど、でもそれじゃあんまりだからってことでこの形になった。この大学の茶道部とは同じ社中、常盤さんの取りなしと先生の計らいもあって、どうにか合同で開催することとなった。
——僕以外誰も来てないけど。
まあわかる。この時期はみんな忙しくて、しかも三年生は当然引退済みだからってのもあるけど、それ以前にまず大学生と一緒というのが気が引けた。同じ社中といってもほとんどは知らない人だし、まして会場が完全なアウェー、つまり大学のキャンパス内だ。自分の制服姿があまりに子供っぽく思えて、もっとも高校の部活で身につくような作法なんかおままごと同然だと自覚はしていたけれど、それにしてもはっきり差が見えすぎた。ただこの場にいるだけでも恥ずかしいような心地がして、なによりつい去年までは僕と同じ側だったはずの〝先輩〟が、いまや見慣れないスーツに身を包んだ別の生き物のように見える。春や夏の茶会でも見てきたけれど、でも今日は一段と強く胸を締め付けられる気がした。なんでかは知らない。まあ雪のせいだと思う。
「こういうの、確か借りてきた猫って言うんでしたっけ」
それとも内弁慶だったかなと、その自嘲にでも「どこがだ」と一切手心のない返事。
「借りてきた猫が自分の出番の直前、いきなり失踪はしないよなあ、普通」
次の点前お前だろ、と常盤さん。知ってる。知ってはいるけど、でもそう答えたら「じゃあなんで」ってことになるから知ってるとは言えない。といって「忘れてました」というのも無理があるから、結局僕に返せる言葉なんてなかった。何も言えない。言えないから僕はただ曖昧に微笑む。無言で見つめる。目を細めて、頬を緩めて、わざわざ僕を探して駆けてきたそれを、結局雲に隠れて見つからなかった陽光の代わりに。
「畜生だめだこれ、まだ冷たいままだぞこんな擦ってんのに」
懸命に僕の手を揉む常盤さんに、僕は胸の内で「そりゃそうだ」と答える。僕の指先はもうすっかり感覚がなくて、それは彼がこの場にかけてくる前、ずっと雪の中に突っ込んだままにしていたからで、結局そのまま何分くらい放置しただろう。
「なあ鳴瀬、去年も同じことやったよなお前。いや去年よりもひどいな、くそ」
この指で帛紗畳めるのか、と常盤さん。無理っぽいですね、と僕は答える。試しに指先を動かしてみようにも、もう力が入っているかどうかがわからないのだ。微笑む僕に、「実はバカだよなお前」とまた容赦のない返事。去年で懲りたと思ってた、なんて、それをいうならたぶん逆だと思う。
——懲りるわけない。むしろ、あれで味をしめたんだ。
先輩のせいだ。そりゃ確かに去年とは違う、場所もいつもの部室だったし、完全に身内だけの初釜だった。引退した三年生を除いて、二年と一年だけの初めての茶会。おままごと同然の点前しかできなくとも、みんなそうなら逆にそれが気楽という面もあった。言い換えるなら、どうでもよかった。これでも一年生の中では一番打ち込んでいたはずが、でも自分でも不思議なくらいやる気が出なくて、だからもう黙って帰ろうかと部室を抜け出し、なのに決断しきれず迷っていた最中の出来事だった。
鳴瀬、と僕を呼ぶ声。それまでの部活で何度も聞いた、でもその日は聞けるはずのない声。
誓って言おう。本当に、別になんというつもりはなかったのだ。ただ外でうろうろしてただけ。一度はサボって帰ろうとは思ったものの、でもあとで怒られるのもなと二の足を踏んでいた半端な状態。その日の雪はきれいだった。しんと冷え切った空気の中、積もった雪は微かに水気を含む程度で、適当に握ってやったらきれいな雪玉になった。なったはいいけど使い道がないから、仕方なくそのまま適当に投げる。丸い雪玉は雪景色の中に同化して消えた。白から白へ。妙に面白くて、それを二度三度繰り返すうちに、突然来るはずのない人がそこに来た。
——いいんですか、勉強の方。
そう言えたかどうか、それはもう覚えてないけどでも驚いたのは確かだ。先輩。僕の一番尊敬する人、これまでどんな点前でも完璧にこなしてきたその長い指が、白い景色の中にひらひらと踊るのが見えた。僕の名を呼び、それから何してんだこんなとこでと首を捻る仕草。はい帰ろうとしてました、なんて、まさかそんなこと言うわけにもいかないから僕は黙った。僕の沈黙をどう思ったのか、いやたぶんなんにも思っちゃいないんだろうけど、でも先輩はのしのし僕のすぐ目の前まで来て、
「うおっ冷たっ」
と漏らして、そしてついでのように「細っそいなあやっぱ」と言った。気づかぬうちにすっかり冷え切っていた、僕の真っ白い指先を握って。
何の気なしに、というやつだと思う。実際そうだ、だって先輩は「点前できないだろ、かじかんで」って言った。見るからに冷たそうで、この後の茶席に支障をきたすのは明らかで、だからとっさに温めようとしたのだ。そういう人だ、この人は。例えば春先の新入部員の勧誘、僕の顔を見るなり声をかけてきたのだって、本当にただなんとなくだと言っていたのだから。
このときだった。そのあまりに長く美しい指の、でも意外な感触を知ったのは。
きれいに見えるからみんな気づかないけど、常盤さんの指はこれで結構ゴツゴツしている。ふしくれ立った関節の、その骨の硬さが直に伝わるようで、思えば冷え切った指でどうしてそれがわかったのか、不思議だけれどでも仕方がない。ヒュッ、と小さく栓を閉めるような、そんな自らの呼吸音を僕ははっきりと聞いた。なぜだか心臓が止まりそうになって、それをとっさに取り繕った理由は、でも僕自身いまもって理解できていない。
だから、ってわけじゃないのだけれど。
もう一回。あの雪の日の思わぬ発見と、そして結局かじかむ指でこなした茶席の後、ほとんど泣きそうな気持ちで投げかけたあのひとことを。先輩、実は結構男の手してますよね。そう告げる僕は確かに微笑んでいて、それは明らかに無理矢理作った顔で、だって本心では泣きそうだった。心臓が早鐘のように打っていた。足の感覚が半分くらいなくて、こめかみのあたりがクラクラおぼつかないのに、先輩はこともなげに「そりゃあな」って言った。そりゃあ、お前に比べたらなあ。さらに続けたひとことが、先輩お得意の〝何の気なしに〟が、今なお僕の真ん中に刺さって消えない。
「しかし爪長いよなお前。すんげー邪魔そうだけど、いいな。らしくて」
——だから。
「先輩のせい、でしょう」
僕は告げる。微笑もうにもどうにもできない、引きつるみたいに歪んだ半端な顔で。先輩のせいだ。何をされたのかわからないけれど、でもどうにかしていることだけははっきりとわかる。どうしてあんなにきれいな手が、一見僕のとそこまで違いのなさそうな指が、でも僕の手をすっぽり包んでしまえるのか。こんなにも強く暖かくて、でもそれはきっと茶碗や茶筅を掴むためのものなんだと、それ以外の可能性は考えもしなかったのに。
茶道。もともと興味なんて微塵もなかった、きっと昔の僕なら考えもしなかったこんな部活を、でも僕はどうして今日まで続けてきた? わかっていたはずだ。言葉にできる理由は思い浮かばなくとも、でもいつも脳裏に浮かぶのはあの美しい指先。雪景色の中、遠目に見てもすぐそれとわかる手。繊細な見た目とは裏腹の力強い感触を、あれ以来この〝細っそい〟指に染み付いて取れない毒のような夢を、この一年の間に何度思い描いてきた?
「先輩のせいなんですよ。全部」
繰り返す。まるで念を押すように、あるいは子供が駄々をこねるかのように。ダメだ、やっぱり僕はもうどうしようもない。この吐き気を催すほどの純粋な憧れを、今までずっと逆恨みすらしてきた尊敬の念を、僕はいまどうしようもない言い訳に使おうとしている。
先輩は、僕の先輩だった常盤さんは、でも何も答えなかった。ただ「そうかあ?」と小首を傾げて、すぐに作業に集中する。彼は僕の指だけを見ていた。去年以上、もう手の施しようもないほどに冷え切ったそれに、さしもの彼の表情も渋くなる。大丈夫かこれ。いや、さすがに医者にかかるほどではないにしても——。
「間に合うか? 点前がいなきゃ始まらんが、そろそろ今の茶席終わる頃だぞ」
呟き、そして時計に目をやる常盤さん。その表情だけでわかった。たぶん、『もう終わる頃』なんてものじゃない。とっくに終わって、片付けも済んで、次の茶席の客もだいたい入って、だから僕は今頃水屋で待機してなきゃおかしい頃合い。無理矢理持たせてもせいぜいあと二、三分ってところで、でなきゃこの人がここまではっきり、「走るか」なんて言い出すはずがない。
「鳴瀬。戻ろう。全力でダッシュすりゃまだギリ間に合う」
嫌です。はっきりそう答えるのは気が引けた。常盤さんはきっと拒まない、どんな状況でも僕に何かを無理強いする人ではなくて、だからそれをわかった上で言うには、「嫌」って言葉はあまりに強すぎた。
目を閉じる。喉から出かかった言葉をぐっと飲み込み、ただ指先に意識を集中する。
——何も感じない。
戻らない。冷え切った指はまだ麻痺したままで、だからあれは幻だったのだと思い込む。あのふしくれ立った強い感触。雪の中、初めて知った遠い憧れ。稲妻のようにこの身を引き裂いたそれは、でも所詮は幼い日の幻影だった。そのはずだ。そうでなければいけない。だって、それが一番だ。
だけど。
でも、どうか、今はまだ。
「お願いします。このまま、もう少し。あと少し」
せめて、五分だけ。
目を閉じたままの僕に、先輩の笑い声が妙に近い。はは、と腹から吐き出たような声に、続けてひとこと、「間に合わせる気ないだろお前」なんて。なのに僕の指を揉むのはやめていなくて、だから彼はあくまで次のお茶席、そこに僕を連れていくためにここにいるのだと、僕はそう理解したつもりなのだけれど。
「わかった。五分な。数えてやるから、じっとしてろ」
静かな声。低く落ち着いた、いつもの声。僕を茶道部に誘った声で、何度も僕の名を呼んできた声。なんだか泣いてしまいそうな心地のはずが、逆にすっと心が凪いでいくのを僕は感じた。常盤さんは大人だ。ふてて泣く子供をあやすのがうまいのかもしれない。少しずつ落ち着いていく心音を聞きながら、僕はしばらくこの目は開けられないなと思った。なんなら耳も塞げたらいいのに。触れ合っているはずの指先は、でもやっぱり何も感じ取ることができない。
あと五分。まだ五分。きっと僕の人生全体から見たら一瞬の時間。
視覚を消し、聴覚すら閉じて、無音の暗闇にあるはずのない指を思う。僕の指。細い指。遠い憧れには決して届かず、それでも優しく許してもらえた指。それはきっととても幸せなことで、だからこの永遠に近い五分の間に、僕はいよいよ泣き止まなきゃいけない。温めてくれる強い手を離れ、ひとりで帛紗や棗を掴み、いつか無事にそれを成し遂げたとき、僕はこの長い爪を切るのだと決めた。その姿を、指先から切り離された子供のわがままの証を、今ははっきりと思い描くことができる。深く想像して、そして微笑む。あのときと同じ顔で、せめて最後にもう一度。常盤さんは見ているだろうか? 目を閉じているからわからないけど、でもどちらでも構わない。
血が通う。伝わる、熱。ヒュッ、と心臓に詰まっていた栓が抜けて、僕は初めて呼吸をする。そうしてようやく戻ってくる、この細い指先の確かな感触。
ゴツゴツと、硬くふしくれ立ったその優しさに、僕は改めて思うのだ。
きれいに見えるからみんな気づかないけど、それでも、僕は。
〈わがままな爪 了〉
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