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あの夏を思い出す度、僕の胸は痛むんだ。
まるでクリスタルの先端で刺されたみたいに。
だけど何故だろう、
どこか懐かしいのは。
まるでふるさとに似た風景を見た時のように。
あの頃感じた風、
潮の香、
君の声。
2年付き合った彼女に振られたばかりの僕は、
どこかに逃げたくて逃げ場所を探していた。
そんな時、伊勢市の海辺のホテルの夏のバイトを知った。
大学生に焦点を当てた二か月間のバイト募集だったから、
このバイトはまさしく僕の為にあるものだと思った僕は、
早速履歴書を書きホテルに送った。
3日後には連絡があり、
東京に住んでいる僕に配慮してくれたのだろう。
履歴書だけで合格ですと言われ、
早速7月の終わりには僕は意気揚々と伊勢市の海辺のホテルに向かったのだった。
ホテルの名前はヒューグラントホテル伊勢。
僕の大好きなハリウッド俳優と同じ名前だったから、
余計僕は運命を感じていた。
駅を降りて、
海の道なりを歩いた。
海の道なりにはいくつもいくつもホテルがあった。
道なりにはまるで大名行列かと思えるほどの
カラフルな色を纏った人間達が溢れ、
そこには甲高い声と笑顔しかなかった。
時折、車にクラクションを鳴らされた女の子たちが
キャハハと笑いながら道路を横切り、
その濡れた髪から零れ落ちる滴がキラキラと光に照らされながら落ちた。
カップルも家族連れも男だらけのグループもそれぞれが
みんな一様に輝きを放ち、どこか非現実的な何かと
現実的な何かを絡ませてあえてごちゃごちゃにしているかのように見え、
それでもやっぱりそこには楽しいことしか転がっていないようにも思えた。
いいことがありそうな予感に胸震わせて僕は歩いた。
僕のバイト先、ヒューグラントホテルは、
その道なりの突き当たった先の小さな崖の上に建っていた。
付き当たった先に石で出来た階段があって、
そこを十五段ほど登ると、そこにホテルがあった。
ヒューグラントホテルは
道なりにいくつも建ち並んでいたおしゃれなホテルとは似ても似つかない、
そうわかりやすく言えば、
伊豆のホテルにあるような良く言えば老舗、
悪く言えば古い旅館だった。
まぁなんとなく写真を見ていて予想はついていたけど、
予想していたよりも古そうなホテルだった。
もう見て分かる。鉄筋の年月が経った感。
鉄骨でも人間でも動物でもわかってしまう
、衰えた肌質感というかふいんきというか。
いいいことがありそうな予感を張り付けていた僕の胸からそれが少し剥がれおちそうになって、
僕は慌ててそれに手を置いた。
そしてすぐに思い直した。
僕は客ではないのだ。お金を払う方ではなくて、
もらう方なのだから、
古びたホテルってだけで文句など言える立場ではないのだ。いいじゃないか、
都会から逃げ出してきた僕には、これぐらいがちょうどいい。しかも目の前には真っ青な海。
それだけで心がこんなにも穏やかになる。
大きく息を吐くと、海辺の香が僕の鼻を擽り、
湿った風が僕の髪を撫でた。
自動ドアが音もなく開いたその先に、
大理石っぽいので作られた玄関が6畳ほどあって、
低めの段のその先に真っ赤な絨毯が敷き詰められていて、
その上に茶色いスリッパがいくつも並べられてあった。
そのずっと先の突き当たりの壁に海辺の大きな絵が掛けられて、その突き当たりの左右に長そうな廊下があって、
僕はその右の方に向かって、
「すみません」
と大声で誰かを呼んだ。
すると廊下の奥の方から、
「は――い」
と声が聞こえてきて、
僕は声の主が現れるのを数秒待った。
「はい、はい、はい」
そう言いながら出てきたのは、
着物に身を包んだメガネの小太りのおばさんだった。
「あ、すみません。僕今日からバイトでお世話になる古木といいますが」
「あぁ、はいはい、古木さん、おかみさんから聞いています」
と言いながらその人は僕の目の前に並んである茶色いスリッパを顎で指した。
上がってそれを履けと言っているのだろう。
僕は急ぐように靴を脱ぎ、
目の前のスリッパを一つ選んでそれを履いた。
「どうぞ」そう言いながらその人が僕の前を歩きだした。
その後ろに着いて歩く僕。
赤い絨毯に吸いつかれるような感覚を足裏で感じながら、
僕は歩いた。
茶色いスリッパが僕の靴下で滑って、
何度も脱げそうになりながら、
それを足裏で抑えつけながら歩く僕の前に海辺の絵が見えた。
真っ青な海の前に、
一人の少女が後ろ姿で立っていた。
その頭に麦わら帽子。
そしてノースリーブの、
全体が白っぽくてそのところどころに真っ赤な薔薇の模様が散りばめられているワンピースを着ていた。
その絵は全体的に青と白で出来ているのに
真っ赤な薔薇の模様だけが妙に浮いている感じがして、
僕はしばらくその海の絵から目が離せなかった。
絵の中の少女の長い髪が風に揺れていて、
風に浚われそうな麦わら帽子を
そっと右手で抑える少女の頭上にカモメが二匹、優雅に飛んでいた。
そこで小太りのおばさんの首が僕の方を向いた。
「まず事務所に案内しますね」
「はい」
と僕。右に曲がったおばさんの後ろに着いて歩く僕。
「私、仲居の金沢といいます。よろしく」
「古木蒼太です。よろしくお願いします」
僕が歩きながら頭を下げると、
金沢さんは歩きながらにこりと微笑んで、
そして前を向いた。薄い緑の着物に身を包んだ金沢さんの帯に着いてある小さな鈴の音が、
チャリンと大きく音を立てて止まったその先に、木枠で出来たドアがあった。それを金沢さんがガラガラと引くと、
クーラーの涼しげな風が僕の髪をサラリと通り抜けた。
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