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白い凶悪
その男は、世の中にいる全ての他人が気に入らなかった。
(殺してやる…殺してやる!)
家にいる時も、身支度を整える間も、家を出て駅に向かっている時も、電車に乗って会社に行き仕事をしている最中も、殺意に似た感情に心を焼かれていた。
しかし同時に、こんな思いを抱いてもいる。
(みんな殺してやりたい……けど、無理だよなあ…僕には……)
男は気が弱かった。特に仕事という戦場において、彼は損ばかりしていた。
「おい! 何日前の仕事やってんだお前!」
「えっ? い、いやだって、これはきちんと時間をかけてやれって先輩が…」
「口答えすんじゃねえ、さっさとこっちやれ! まったく、その陰気な顔見てるとイライラする!」
「すいません………うう…」
強く言われれば萎縮するばかりで、意見を通すということができない。思い通りにならない瞬間はいくらでも積み重なって鬱屈した時間となり、時間は日々へ、そして人生へと拡大していく。
男は、まるで足がつかない深い海にでも放り込まれたかのように、息苦しい人生を余儀なくされていた。
「はあ…疲れたぁ」
その日もどうにか勤務時間を生き抜き、男が家に帰ってくる。
疲れているにも関わらず、ひと息つくこともせずに冷蔵庫へ向かった。
(今日もみんな殺したかった。でも僕には無理だった)
冷蔵庫の中からラップに包まれた肉を取り出し、まな板の上に乗せる。
ラップを開くと、包丁を使って今から食べる分だけを切り分けた。
(メシだけが、僕を救ってくれる……)
切り分けた肉に塩コショウを振り、油を引いたフライパンで焼き始める。その後で、残った塊を片付けようとまな板の前に戻った。
と、つけっぱなしのテレビから笑い声が聞こえてくる。
「?」
何だろうと男が振り返った時、手がまな板に当たる。まな板が傾き、その上にある肉の塊や包丁もろとも床に落ちた。
「ああ…」
男は悲嘆の声をあげつつ、まず最初に肉の塊を拾う。
向きを変え、あるいはひっくり返し、床のホコリやゴミがついていないか調べた。
(思ったより汚れてないな)
ラップがうまく守ってくれたおかげで肉の塊は無事だった。しかしさすがにそのまま片付ける気にはなれず、汚れたラップを外して塊本体を流水で洗う。
肉の塊はほとんどの面が赤い。だが落ちる前、ラップ越しにまな板と接していた底面にだけは、肌色のシートが付着していた。シートはスーパーのパック肉下に敷かれる吸水紙とは違うものらしく、流水や男の手が当たっても塊からはがれることはなかった。
肉の塊を洗い終えると、男はそれを左手に持ったまましゃがんでまな板を拾い上げる。蛇口下にまな板を置くと表面を右手だけでなでるように洗い、シンクの隣に移動させてから塊を上に乗せた。
そうしているうちに肉が焼けてくる。最後に包丁を洗ってまな板の上に置くと、男はフライパンに近づいた。
ヘラで肉をひっくり返すと、こんがりと焼けた表面が姿を現す。
(なかなかいい焼き色だ)
男は満足げにうなずき、もう片方も同じように焼いた。
表裏両面に焼き色をつけた後、男は火を弱めてフライパンにフタをする。壁に貼りつけてあるキッチンタイマーを操作して、蒸し焼く時間を決めた。
(今日は5分くらいかな)
設定を終えてボタンを押すと、まるで返事をするかのようにタイマーが小さく音を立てた。
それから男はフライパン前からまな板のそばに移動し、洗った塊の処理を再開する。塊の表面に付着している水分をキッチンペーパーで拭き取り、新しいラップで丁寧に包んだ。
塊を持ち上げて冷蔵庫に持っていき、取り出した場所にしまう。
(あとどのくらい残ってるかな)
まだタイマーからの呼び出しはない。男は冷蔵庫を開けたついでに中を調べ始めた。
冷蔵庫にはドアポケットや野菜室に至るまで、ぎっしりと肉が詰め込まれている。それを見つめる男の顔は、帰宅直後とは違っていきいきと輝いていた。
(こっちはこんなもんか。んで……?)
冷蔵庫の調査に区切りをつけ、今度は冷凍庫のドアを開ける。
(ん~……)
庫内をのぞき込む男の前には、積み上がる肉ばかりがあった。
つまり冷蔵庫と冷凍庫、どちらの中にも肉しかない。他の食べ物や飲み物は存在しなかった。
肉はどれもラップやフリーザーバッグに入れられている。
それらのいくつかにはふせんが貼られているが、庫底に落ちている枚数の方が多い。男が何度も調べるせいでほとんどがはがれ、どの肉に貼られていたものなのかわからなくなっていた。
落ちているふせんのうち1枚にはこう書かれている。
”若い女”
他にも少年やおっさんなど、他人に対する呼び名ばかりがあった。
肉といえば牛や豚に加え鶏などが定番であるはずだが、そういった表記は見られない。
(…うーん)
男は調査の手を止めた。
(どれがどれだかわかんないけど、ちょっと量が減ってきてるかもなあ。また仕入れに行かないと…)
冷凍庫から漏れる冷気を顔に浴びながら、腕組みしつつ考える。
と、タイマーが焼き上がりを告げてきた。
「おっ」
男は嬉々とした表情でフライパンの方へ向き直る。
その時、冷凍庫に積まれた肉のひとつが落ちてきた。
「っとと」
男が受け止めたフリーザーバッグの中には、ヒトデのような形の肉が入っている。
それは人間の手だった。
男は何事もなかったかのように、誰かの手を庫内にしまう。また落ちてこないようすぐに冷凍庫のドアを閉めて、調査を切り上げた。
小走りでフライパンに駆け寄り、フタを開ける。
「おお…!」
見事な焼き上がりに、男は感嘆の声をあげた。
火を止めるとフライパンを持ち上げる。皿を用意するのも面倒なのか、そのままテーブルのある和室へ持っていく。
鍋敷きの上にフライパンを置き、近くに転がっている箸をティッシュで軽く拭いた。それを、ジュージューと小気味よい音を立てている肉に向かって振るう。
「んまっ」
男は満面の笑みを浮かべる。全部たいらげるのに、それほど時間はかからなかった。
食後、楽しげな笑い声を放つテレビを眺めながら、ぼんやりとこんなことを考える。
(明日もきっと殺したい。でも僕には殺せない……)
背後の畳には、十本以上の刃物が突き立てられている。
その向こう側に積み上がったおびただしい数の白い物体は、人の骨だった。
>Fin.
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