プロローグ

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プロローグ

 新宿駅からしばらく歩き、狭い路地を一本入ると、背の高いビルに挟まれるように『ゆかり』は立っている。駅を出る者、向かう者が隙間を縫うように、上手に交差していく。その波に乗り、俺も八百屋へと向かった。    「おじちゃん、昼に頼んでおいたやつある?」  元気に声掛けをする店長に負けないような大きな声を出した。その声に気づいた店長が、俺の顔を見て、手を振る。  「貴士!もちろん、準備はできたぞ?えっと…トマトとじゃがいもとナス―――」  目を泳がせ、必死に思いだそうとしているが、思いだせないようだ。  「おじちゃん!あと2つだけど、降参する?」  「降参?江戸っ子だぞ?もうちょっと待ってくれ!トマトと忍者が…ニンジンだ!トマトと忍者が、紫姫と…そうだ!玉葱侍を30人助ける!」  スッキリした顔で俺を見つめる。  「つまり?」  時間はたっぷりあるが、魚屋と肉屋を梯子しなきゃいけない。話を促す。  「トマトとじゃがいも、ニンジン、ナス、玉ねぎを30個ずつね。朝の分、全部、捌けた?」  「もちろん!昼でほとんど消えた。でも…夜がね。もうちょっと、客が入ってくれないと、そろそろ、俺のお腹がね…。―――うん、いいね!はい、これ代金。おじちゃんさ、紙に書いたら?俺は、毎回見ていて面白いけど」  野菜達の品質を確認してから、代金が入った封筒を渡す。代金を確認するおじちゃんに言えば、苦笑いを浮かべた。  「いや…俺、こういう性格だからちゃんと書いたとしても、どっかにやっちまうと思うんだよな。はい、ちょうどね!じゃあ、あとであいつに届けさせるから。あ!あと、貴士はもっと、俺くらいに太った方がいいと思うぞ!」  そう言って、おじさんは楽しそうに笑った。  俺も笑ってからお礼を言い、八百屋をあとにした。  魚屋に行くと、魚屋のおばちゃんは店の前に置かれた椅子に座り、居眠りをしていた。  「おばちゃん、おばちゃん!おはよう」  優しく肩を揺すれば、すぐに目を覚ました。  「あら、貴ちゃん!昨日、なかなか眠れなくてね…。何、買いに来たの?」  「おすすめの魚、ある?おすすめの食べ方も教えて欲しいんだ」  「そうね…鰺、鯖、鰤かな?焼いても美味しいけど、鯖はやっぱり味噌煮よね。鰤は、ブリ大根?鰺は開きでも、なめろうでもいけると思う」  おばちゃんは長考すると、丁寧に教えてくれた。  「いいね!3匹ずつもらおうかな」  「はい!貴ちゃんなら美味しく料理してくれるから、おばちゃんも安心だわ」  おばちゃんは、そう言いながら袋に鰺、鯖、鰤を3匹ずつ入れていく。褒められるなんてこと、幼少期くらいしかなかったからすごく照れ臭い。お礼を言って受け取ると、おばちゃんは俺の真っ赤になった顔を見て、声をあげて笑った。  「アハハ!もう、我慢できない!貴ちゃんって、本当にかわいいわね。ああ…昨日から元気でなかったけど、貴ちゃんと話していたら、元気出てきちゃった。あっ!そう言えば、知っている?」  おばちゃんの笑い声を聞いていると、急に知っているかと真面目な顔で聞かれた。何も知らない俺は、首を横に振った。  「豆腐屋のおばさんから聞いた話なんだけどね…昨日の夕方辺りから、ずっと街をうろうろしている男がいるんだって。マスクして、ポケットに手を突っ込んで、いかにも怖そうな人らしいのよ!誰かとすれ違う時なんて、目線を合わせないように、壁を向くのよ?怪しくない?その人、私…見たの!怖くて、怖くて!眠れなくなっちゃったわよ…」  口に手を当て、小声でおばちゃんは話した。俺には、その話を聞いた瞬間、男の行動理由がすぐに理解できた。噂話に興味はないが、いい関係を崩すにはいかない。俺は、神妙な顔で頷いておいた。  「だから、戸締まり!戸締まりはしっかりしないと、お金、盗られちゃうわよ?」  「そうですね!でも、そんなに盗られるほどのお金ないですよ」  俺が冗談めかして笑うと、おばちゃんも声をあげて笑った。  「そうね!よく考えたら私も盗られるほどのお金ないわ!貴ちゃんのおかげで、今日からまた、ぐっすり眠れそう。―――いらっしゃい!貴ちゃん、また来てね」  ちょうどいいところにお客さんが来てくれて、おばちゃんと別れることができた。手を振るおばちゃんに手を振り返して、魚屋をあとにした。  肉屋に行くと、店内に誰もいなかった。いつも夫婦で切り盛りしていて、俺に笑顔で話しかけてくれる。あの声がないだけで、心の中がざわざわと音をたてる。備え付けのソファーに腰を掛けた所で、車が停まる音がした。音がした方に目を向ければ、おじちゃんが浮かない顔をしながら、店内に入ってきた。  「―――やあ!貴士君。ごめんね、バタバタしちゃっていて…今日は、何にしようか?」  1つ溜息を吐き、俺に気づいたおじちゃんはすぐに、いつもの笑顔を見せた。  「豚バラ肉と牛肉を200グラムずつ、お願いします。…あの、大丈夫ですか?もし、あれなら―――」  そう言いかけたところで、おじちゃんが遮った。  「いや、たいしたことじゃないんだよ。朝、妻が階段の段差に躓いてね…足を捻ってしまったんだ。でも、本当に軽い捻挫だ。ただ、年も年だろう?念のために2週間くらい入院することになったんだが、なんせ初めてで…。一緒に暮らし始めてから初めてのことだろう?何がどこにあるかわからないうえに、料理もできないから不便なんだ。それに、何より、寂しい…。  それでな、しばらくは仕事を休もうと思っている。妻はやれと言ったんだが…」  「それは、そうですよ!大変ですね。あの…お見舞いに行ってもいいですか?」  そう言えば、一瞬だけ、驚いた顔をした。そして、うれしそうに笑う。  「ありがとう。こんな私達に優しくしてくれて…。でも、貴士君こそ大変じゃないかい?」  「僕は大丈夫ですよ。昼間はまあまあ忙しいけど、夜はそうとう暇ですから。いつになるかはわからないけど…。それに、ここに越してきた時、最初に声を掛けてくれたのはおじちゃん達だから。あの時、大袈裟じゃなくて、本当に泣きそうなくらいうれしかった。2人の笑顔を見ないことには…ね」  言っているうちに照れ臭くなり、笑って誤魔化した。すると、おじちゃんは肉を袋の中に入れながら目を細めた。  「君は、本当に優しい子だね。ここが病院の場所だよ。いつでもいい。妻と楽しみに待っているよ」  代金の入った封筒を受け取ると、おじさんは病院の場所をメモに書き、肉の入った袋に入れてくれた。  俺は、大きく頷くと肉屋をあとにした。    店へと向かう途中、八百屋を通ったから追加で大根も注文しておいた。大根は5本くらいもあれば十分だろう。    料理の下ごしらえをしていると、勝手口のドアをリズミカルに叩く音が聞こえた。返事をしながらドアをあけると、いつも運んできてくれる誠二がうれしそうな顔で立っていた。おじちゃんの息子だ。高校に行きたくなくて、学校を休む代わりに仕事の手伝いをしているらしい。最初の頃は面倒くさそうな顔で運んできていたが、今ではすごく生き生きして見える。  「よう、誠二!いつもありがとう」  髪の毛をぐしゃぐしゃにすれば、誠二は楽しそうに笑った。  「髪が崩れる!最近さ、この仕事、俺に向いているのかもしれないって思うんだ。親父には内緒だよ?」  座敷に寝転びながら笑顔でそう語る誠二を、素直にすごいと思った。  「了解!はい、サイダー!」  瓶に入ったサイダーを差しだすと、誠二は驚いた目で見た。  「いいの?えっ…代金、払うよ?」  慌ててエプロンから小銭を出してきた。  「いいんだよ!それ、他のお客さんから預かったお金だろう?これは、ご褒美というか…これからもよろしくお願いします」  深々とお辞儀をすると、誠二もつられて深々と頭を下げる。同時に顔を上げた俺達は、声をあげて笑った。飲みだした誠二を見てから、俺は調理を進める。  「そう言えばさ、夜はどうする気?お父さんから聞いたんだけど、誠二、料理できないんだろう?」  そう言った瞬間、誠二がむせ始めた。それに驚き、すぐに駆け寄る。しばらく背中をさすっていると誠二がいきなり立ち上がった。  「もう!親父だってできないくせに…ウザイ!男は料理できた方がいいとか…。あんな家、帰りたくない!」  拗ねながら、残りのサイダーをちびちびと飲み始めた。いくら大人ぶっていても、そこはこども。俺の頬も緩んだ。  「わかる、わかる!俺もそうだったよ。別に誠二をからかおうと思ったわけじゃなくて、夜ご飯ないなら、残り物で悪いんだけど…これ、持って帰ってもらおうかと思ってさ」  豚の生姜焼き1人前をタッパーに詰めて差し出すと、たちまちご機嫌が治った。  「やったー!貴士兄ちゃんの料理、めちゃくちゃ大好き!これさ、ご飯が何杯でも進むやつだよね!  ―――あっ!忘れる所だった。回覧板で回ってきたんだけどね、タバコ屋のおばちゃん、亡くなっちゃったんだって。告別式は、明日。教会でするんだって。家族葬で行うらしいんだけど…みんなで花だけでも出そうかって話になっていて…貴士兄ちゃん、2000円だけもらえる?」  タバコ屋のおばちゃんが亡くなったと聞いて、正直、ショックだった。よく食べに来てくれて、いつも俺の体を気遣ってくれた優しいおばあちゃんだ。  「ああ…。もちろん、払わせてもらうよ。おばあちゃん、いい人だったよな」  「うん。俺が小さい頃から一緒に遊んでくれて、大好きだった。―――やばっ!そろそろ、帰るね!」  少し、2人でしんみりしているとおじちゃんからの呼び出しが入った。ドアノブに手を掛ける誠二に俺は慌てて呼び止めた。  「待て、待て!大事なもの忘れているぞ」  タッパーを入れた紙袋と2000円を手渡した。  「ありがとう!サイダーも夜ご飯も」  照れくさそうにそう言うと、今度こそ店を飛び出した。  俺は遠くなる誠二の背中を、消えるまで見守った。
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