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写真を持ったまま家を飛び出した高橋雄太は、自分の気持ちを整理するために、あてもなく彷徨い続けていた。
「どうしたらいいんだよ…」
星のない夜空を見上げ、そう呟いた。
歩き疲れた俺は、公園のベンチに座り、項垂れた。着の身着のままできた俺は、家にコートも手袋もマフラーも、いろんなものを置いてきてしまった。あるのは、今は見たくない写真だけ。母は、俺に何をしたいのか。何を伝えたいのか、さっぱりわからない。そんなことを考えていると、写真の上に水滴が落ちた。頬を触ってみるが違う。気づけば、パーカーがぐっしょりと濡れている。ようやくわかった。雨だ。雨が降ってきたのだ。ため息を1つ吐いてから、パーカーのポケットに写真を入れ、立ち上がった。
雨は止むことを知らず、時間が経てば経つほど勢いが増していく。視界は雨で霞み、もう、どこを歩いているのかわからない。マッチ売りの少女のように母が迎えに来るのではないか…。そんなことを考えていると、遠くの方に暖かみのあるオレンジ色の光が見えた。光に吸い寄せられるように歩みを進めると、人影が。その人影は俺に気づいたのか、こちらに向かって走ってくる。
「大丈夫ですか?雨宿り、して行きませんか?」
俺を心配な目で見つめてくる男性。
(俺より、年上?こんな俺を、暖かい店の中へ入れてくれるのか…)
俺は、彼に全てを預けることにした。俺が頷くと、彼は笑顔で「お帰りなさい」って当たり前のように言ってくれたんだ。久しぶりに聞いた言葉に、俺はうれしさとともにびっくりしてしまった。
俺は、すぐにカウンターへと通された。店内は、俺の他にカップルがいるだけだった。ここは、穴場スポットなのかもしれない。彼は、どこかへ行ってしまった。突き刺さる視線に目を向ければ、カップルが、内緒話をしながら俺を見ている。改めて、自分の恰好を見ると、びしょ濡れもいいところ。俺は、入ってきてしまったことを今さらながらに後悔した。
「あ…あの、俺、やっぱり帰ります。椅子、汚しちゃってごめんなさい」
いつの間にか戻って来た彼にそう言い、逃げようとすれば、俺の手は優しく包まれた。ものすごく、あったかい…。彼を見上げると、優しい目をしていた。
「そんなこと、気になさらないでください。まずは、しっかりと温まりましょう?」
そう言って、俺の頭にふわふわのタオルを乗せた。
手招きされたと思えば、あれよ、あれよという間に店主の寝泊まりしている2階へと連れてかれた。けっこう、広い。あがると、すぐに6畳の和室が出迎えてくれた。和室の隣は寝室のようだ。
「えっと…これがいいかな?あっ、こっちも似合いそう!」
辺りを見まわしていると、寝室から慌ただしい音とともに彼の楽しそうな声が聞こえてきた。
「あ!これがピッタリだね。風邪、引いちゃうからこれに着替えて?」
彼が渡してきた洋服は、インナー、赤チェックシャツと紺のニット、デニムパンツ。彼の行動に理解できず、差し出されたその服をただ、見つめた。
「いや…でも、普通はお店の人って洋服、貸しませんよね?」
そう言うと、彼は笑った。
「うん、貸さないね。でも、このお店、普通じゃないから。店長の俺が普通の生き方してないからさ。あっ!パンツは?パンツは大丈夫?」
「あっ…はい!奇跡的に」
こんなにびしょ濡れなのに本当に奇跡としか言いようがない。
「よかった。着替えたら、降りてきてね。脱いだ服は、このかごに入れて置いて?」
そう言い残すと、彼は店に戻って行った。
取り残された俺は、お言葉に甘え、着替え始めた。濡れた体を柔らかいタオルで拭き、インナーに袖を通す。それだけで、今の俺にとってはすごく気持ちよかった。チェックシャツから香る柔軟剤に包まれた瞬間、鼻の奥がツーンとした。
着替え終え、脱いだものを緑色のかごに入れるとパーカーのポケットに入っている写真を取り出した。小さくため息をこぼしてから、デニムパンツのポケットに写真をねじ込んだ。
店の中へまた入ると、彼は何か作っていた。甘酸っぱい匂いに引かれ、近づいていくと、彼が気づいた。
「お!お帰り。やっぱり、似合うね。昔、よく着ていたけど、入らなくなっちゃったんだよ。よかった、よかった」
彼は、何度も頷きながらすごくうれしそうだ。
「ありがとうございます。あの、洗ってお返しします」
「いいよ、別に。着てくれる人にあげてもいいし、好きなようにして」
彼は物に執着心がないのか。いらないなら、もらっておこう。
「そんな所に立っていないで、おいで?」
さっきとは打って変わって、くだけた話し方に改めてまわりを見渡すと、俺と彼しかいなかった。頷いてから席に着くと、湯呑が置かれた。久しぶりに見た湯気に、なんだか安心する。湯気を3回ほど吹き飛ばすと、一口飲んだ。
「美味しい…」
すっきりとした酸味に、ハチミツでも入っているのだろうか。微かに甘味を感じる。一口、飲んだだけなのにもう、体があったかい。胃が喜んでいるのが、よくわかる。どこか懐かしい味がした。
「柚子茶だよ?俺、意外と好きなんだよね」
そう言いながら、彼も飲んでいる。本当に店主らしくないし、家にいるみたいだ。
「これ…手作りですか?」
そう聞けば、彼は湯呑に口をつけたまま頷き、こう言った。
「常連だった人に作り方、教えてもらったんだ。―――そうだ!何か、食べない?」
あまりに明るく聞かれたから、つい頷いてしまった。彼はとてもうれしそうな顔で腕まくりをし始めた。
「よし!お腹が空いていると、悲しいことばっかり考えるもんね。何、食べたい?夜は基本的にメニューとかないから、君の好きな食べ物、なんでもいいよ?」
「えっと…どうしようかな。―――きんぴらごぼう、できますか?」
「かしこまりました。あっ!作っている間、これでも食べて?」
出されたのは、キュウリの上にネギが乗ったもの。口に入れた瞬間、ビンビンに感じるネギの辛さと塩味が主張しあうのだが、すぐにゴマ油がまとめてくれるのだ。パンチのある味だが、いくらでも入る。また、キュウリを叩いているから、味が染み込んでいて堪らなく美味しい。
「これ…俺、大好きです!ゴマ油、いいですね!」
そう言っている間も、箸は、キュウリを掴んで放さない。すると、彼はゴボウを千切りにしていた手を止め、目を輝かせた。
「ありがとう!君なら絶対にわかってくれるって思っていた!そうなのよ、ゴマ油は大事なの!俺、ずっとその言葉が聞きたかった」
少年のように喜ぶ彼に、俺は数時間ぶりに笑っていた。
気持ちが軽くなった俺は、柚子茶を再び口にした。やっぱり、懐かしい。甘辛い匂いが鼻をくすぐり、今にも胃袋が暴動を起こしそうだ。柚子茶で必死にお腹を宥めていると、彼が話しかけてきた。
「体、あったまってきた?寒かったら遠慮しないで言ってね?」
「あったまってきました。来た時は寒すぎたけど、今は平気です」
そう言うと、彼は安堵の表情を浮かべながらきんぴらごぼうを白い小鉢にきれいに盛り始めた。
「どうぞ?召し上がれ」
俺の前に、出来立てのきんぴらごぼうが置かれた。ゴボウ、レンコンに色鮮やかなニンジン。上には、柚子の皮が乗っている。さっきまで嗅いでいたいい匂いが、こんな近くにある。胃袋は拍手喝采。震える手で箸を持ち、きんぴらごぼうを掴むと口に入れた。その瞬間、俺の中で何かが弾け飛んだ。やっぱり…。この味を俺は知っている。見た時から気づいていた。
ちょっとしょっぱくて、甘さ控えめ。野菜達の食感も残っているし、柚子の香りが鼻へ抜けていく。鷹の爪は舌をピリッとさせ、ご飯が何杯でも欲しくなるやつだ。ずっと泣けなかったのに、机に水たまりを作っていく。嗚咽を堪えながら食べ進める俺に優しい眼差しを向けると、彼はどこかへ消えた。俺は、嗚咽を漏らし、泣き続けた。
もう何も出ないほど泣き、疲れた頃にようやく彼が戻ってきた。彼に聞きたいことが山ほどあるのに、言葉が出てこない。彼は、わかっていると言いたげな顔で頷くと、俺の手に冷たいタオルを乗せた。
「冷やさないと、目が腫れちゃうよ?」
ずっと彼を見つめていたからだろうか。困ったように笑われた。俺は小さく頭を下げてから、目にタオルを乗せた。冷たくて、気持ちいい。
しばらく冷やし、タオルを外すと、彼は冷めてしまったきんぴらごぼうを温め直してくれていた。
「あの…このきんぴらごぼう、誰かに教わったんですか?」
「―――そう。柚子茶の作り方を教えてくれた常連さんにね」
温め直したきんぴらごぼうを俺の前に再び置いた。
「もう、その人は来ないんですか?」
「来られないかな…。昨日、亡くなられたらしいから。楽しいことが大好きで、いつも笑っていて、すごくお茶目なおばあちゃんだったんだ」
それを聞いて、抱いた違和感は確信へと変わった。胸の鼓動が早くなる。
「そのおばあちゃんのこと、大好きでしたか?」
声が震える。
「もちろん。関わりは2年くらいだったけど、すごく、よくしてもらったよ。ちゃんと食べているか気にかけてくれたし、大好きなおばあちゃんだったよ?そのおばあちゃんはね、たくさんの人に愛されていて、人気者だったんだ。お礼を言いたい人は、俺以外にもたくさんいると思うよ?」
俺は、また込み上げてきた涙を飲み込むと、きんぴらごぼうを口に入れた。噛めば噛むほど胸に熱いものが込み上げてくる。枯れたはずの涙が、また零れだす。
「いっぱい食べて、泣きな?眠くなったら、何も考えなくなるから大丈夫」
そう言って、楽しそうに笑った。俺は、お腹がいっぱいになるまできんぴらごぼうを食べ続けた。
眠気が襲い、帰ろうと立ち上がった時、財布を持って来ていないことを思いだした。
「すみません…俺、財布、持っていません」
「だよね。また、食べに来て?君の服、乾かしておくからさ」
どこまでも優しい彼にまた来ることを約束すると店を出た。
もう、雨は、止んだ。夜空を見上げると、携帯を取り出した。
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