絶対五分圏内

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絶対五分圏内

 二〇二五年の夏に〝ソレ〟は前触れもなく六本木ヒルズ付近に現れた。細長く骨張った体躯は湿った灰白色の肌に覆われ、尾を入れて体長が三メートル、体高は二メートル。四足歩行でソレは動いたが、まるで地球上の獣全てを合わせてもこうはならない奇天烈な挙動でもって、感覚器の見当たらないのっぺりとした頭部を周囲に向けていた。当該区域は盆休みの家族連れが多く、若い男女も歩いていた。  初めにソレを見たのは公園で遊んでいた青木宗介という十一歳の少年だった。周囲の大人は特撮の着ぐるみだと気にも留めなかったが、彼に芽生えた恐怖心は本物だった。ぬらりとした肌に覆われた四肢は細く、長く、先端に獰猛な爪を持っていたのだ。加えて、宗介はソレが近づくと異常な臭気を感じた。彼は、硫黄とアンモニアが混じったような臭気を「死の匂い」だと瞬時に察し、その場にへたり込む他なかった。  宗介が卒倒しなかったのは不運としか言いようがなかった。直後、彼を立たせようとした青木夫妻が胴を爪に引き裂かれるのを見てしまう羽目になったからだった。 「おと……お母さ……?」  宗介は朱の水溜りで二人を呼ぶが、周囲の悲鳴にかき消されてしまう。倒れ伏した両親の虚な瞳が炎天下、ぐるりと天を仰いだ。宗介は両親の肺から最期に押し出された「かふう」という吐息を耳にし、ようやく意識を手放せた。その日、被害者すなわち犠牲者は二千人を超え、もはや「どの部品が誰の物であるか」という確認ができない状況を迎えた。これが始まりの日に確認された事実だった。後にソレは公式に〝オメガ〟と呼ばれることとなる。終焉を予感させる存在ゆえの呼称だった。  二〇二五年、冬。ついにオメガの活動範囲が確定される。半径十キロメートル。周辺の市街からは生命を保った人間が全て退避していた。国会議事堂は放棄され、神奈川県横浜市に臨時の議事堂が設立される運びとなる。  二〇二六年、春。オメガが活動範囲内の生命を大小に関わらず、悉く刈り取る行動をすると確認される。同時期、陸上自衛隊が派遣されるも、彼らの持つ装備では撃退がせいぜいだと周知される。  二〇三〇年、夏。五年間の厳しい外交の際を攻め、国内の反感を買いながらも脅威を排除するべく協力国から派兵を受け入れる。建造物の損壊を度外視した爆撃。国土をあえて焼くという捨て身の作戦に、しかし、オメガは半径二キロメートルが更地となった六本木に五体満足で依然として残っていた。  二〇三五年、夏。オメガの出現位置から半径十キロメートルを囲う壁の竣工となる。高さ六メートル、厚さ二メートルのコンクリートにネズミ返しが施された壁は、オメガの移動速度と跳躍力から計算された、安全圏を担保するに足る物だった。  二〇三六年、同じく夏。ドローンからの撮影により、オメガの生態が明らかになる。拳大程度の肉片さえ残っていれば、負傷の瞬間から五分以内に出現位置に万全の状態で再出現するという、一から十までデタラメな、物理法則を超えたものだった。これを受けて、ウェブ上で当該区域を〝絶対五分圏内〟と呼ぶ声が上がる。すなわち、オメガにとって壁の中が「絶対に殺されない自分だけの狩場」として確立されたこととなる。  二〇三七年、冬。波間を滑る黒いボートは深夜の闇に紛れて、しかし、月光を受けて着実に絶対五分圏内へと近づいていた。 「震えてるぞ、青木」  海路の上で、境隆二一尉が宗介の顔を見ずに低い声で言った。三十四歳の境は彫刻のように研ぎ澄まされた肉体と、鋭敏な知覚を持つ自衛官だ。宗介はわずかに震える手を拳にしてから努めて冷静に受けた。 「大丈夫です。自分は戦うために向かっているのですから。ただ、冬の寒さがこたえるだけです」  絶対五分圏内の南東に位置する旧海の森公園に着岸したボートから、六名の自衛官が荒れ果てた地面へと降りる。あの惨劇をかろうじて生き延びた青木宗介もその一人だった。潮風に混じる「死の匂い」に、屈強に鍛え上げた肉体を誇る宗介も息を詰まらせる。見かねて唯一の女性自衛官である安田冴子が静かに声をかけた。 「青木三尉、マスクを。この臭気は判断力を鈍らせます」  それぞれが絶対五分圏内境界の位置でガスマスクを着装し、装備を点検しつつ境の言葉を待った。境は旧六本木ヒルズ方面を見据えてから、危機はないと判断して振り返る。少々くぐもった声ではあったが、境の声帯が震わせる空気は十二分に重みを孕んで、周囲の姿勢をすぐさま正させる。 「我々がこれより赴くのは死地であるかもしれない。だが、特攻などという考えは捨てていけ。我々は勝つためにここにいる」  境は自動小銃を抱えながら作戦を確認する。 「航空支援により揺動、打撃を与え、再出現までに出現位置〝ポイントアルファ〟へ可塑性爆薬を設置する。本作戦ではポイントアルファまでをスリーマンセルで二つのルートから進行する。青木と安田、お前らには俺と一緒に来てもらうぞ。その他は大久保に従ってくれ」 「了解しました」  宗介は他の面々と共に敬礼をする時、背嚢に詰め込んだ爆薬の重みを右肩に強く感じていた。たった五キログラムが持つ重みには質量以外のものも含まれている。 「境一尉、青木三尉、背中は任せてください。自分がいかなる時でも標的を射抜きます」  安田は宗介からすれば階級は下だが、確かな腕を持つ冷静沈着な狙撃手だ。彼女の言葉に傲りはない。宗介は、彼女が肩にかけている狙撃銃は一度も的を外したことがないことを知っている。だからこそ、信頼を買われて絶対五分圏内に足を踏み入れることができたのだ。 「ありがとう、安田さん。非常に心強いよ」  軽く笑んで見せようとした宗介は、しかし、マスクの下で目元だけ気の緩みを演じさせるに留まった。彼は始まりの日のポイントアルファを知っているからこそ、演技でも笑っていることなどできなかったのだ。 「青木、安田。お前らは始まりの日に現場付近にいたんだったな」 「ええ、自分はオメガが出現した瞬間に居合わせました。姿形、臭気、爪の本数まで覚えています」  宗介がなるべく感情を表に出さぬよう返すと、安田も続いた。 「自分はその時、新宿区に。悲鳴が続く中、逃げ出すのが精一杯でした」 「幼少期に辛い思いをしたな。二人とも、あの日にご両親が鬼籍に入っていると聞いている。だが、これを仇討ちとするな。国家の治安を守るのが俺らの役割だ。心得ておけ」  境の言葉に、二人は短く承知の旨を口にし、敬礼した。  宗介の入った組は、旧大田区と旧品川区を経由する南からのルートだ。もう片割れは旧江東区、旧中央区を行く東からの進行となる。二組が向き合って敬礼すると、同時に背を向けて中央防波堤から伸びる東京港臨海道路を進んだ。  海上の道路を進む間、ガスマスク越しでも「死の匂い」は鼻腔へと入り込み、脳髄に不快さを呼び起こす。境が思わず顔をしかめる様子をするほどで、間近で体験したことのある宗介は当然、過剰に拒否反応が表れることを免れられない。 「青木三尉、これを」  安田が粒状の物を宗介の手に握らせる。月光の下で艶やかな表面を認めると、宗介は意外に思って言葉を吐いた。 「ミントガム……? こんな物を持ち込んでいたの?」 「あの日、自分が家から持ち出せたのはこれと替えの衣服を数着でした。逃げ惑う人々の中でこれが自分の精神安定剤となってくれたんです。電車は止まり、道路は車で渋滞し、歩道も骸や怪我人で溢れていましたから、ただ口の中でこれを噛み締めることだけが自分を保たせてくれました」 「俺にも一つ頼む。鼻が鈍るだけで他の感覚もおかしくなりそうだ」  警戒を怠ることなく、三名は旧大田区の地を踏む。左手に絶対五分圏内の境界である壁がそびえている。夜間の歩哨が壁の上から彼らに気づくと、姿勢を正して敬礼した。境が短く敬礼を返して、すぐに進路を右へと切る。宗介は背嚢を軽く直しながら、口を開いた。 「やはり本作戦は注目されているようですね、一尉」 「ああ。これで派遣は三度目。これまでに大規模投入、大量被虐殺を二度重ねたから、今回で成果を出す必要がある。もう後がないからこそ、鼓舞もするし、期待もする」  これに対して、冷静な声色のまま安田が難色を呈した。 「しかし、境一尉。自分はあのようにわざわざテレビ番組に出るような真似は避けたかったのですが。あれでは見世物です」 「協力国からの二度目の空爆を許すには民意をまとめなければならなかった。一度目は無為に国土を焼いただけだとして反感を買ったからな。プロパガンダにはお前のような屈強かつ可憐な女性が必要なんだと」  安田は幼くして笑みを忘れた女だ。宗介は、彼女がインタビューで硬い表情で意気込みを短く伝える様子をモニター越しに観ていたから、相当な苦痛であったことを知っていた。そのため、境の言葉足らずな部分を補完する。 「安田さんは単に魅力的だから選ばれたわけじゃない。実力があるから認められたんだ」 「青木、その言い方だと『安田さんは自分にとって魅力的だ』とも聞こえるが」  境は自動小銃を両手に抱え、前を向いたまま素っ気なく言う。宗介は安田の視線も前を向いたままなのを認め、居心地の悪さを感じて肩に食い込むベルトを片方ずつ引っ張って直した。  更地にならなかった区域でも、放棄された建造物群には生物の気配がない。オメガが狩り尽くしたと見えて、そこかしこに腐肉すら残っていない骨が累々と転がっているだけだ。三名は旧品川シーサイド駅手前から、東京モノレールの線路の下を辿る。乗り捨てられた車の中を覗くと、黒カビで満たされたペットボトル飲料と乾燥し切った食べかけの食物が残されていた。宗介は始まりの日から、どれだけの時間が経ったかをそれらから確認した。 「境一尉、青木三尉、索敵のために高層建築物を目指します。これでよろしいですね」 「ああ。そろそろ爆撃された地域に差し掛かる。爆撃前に襲われてもたまらないからな」  海沿いに残った廃ホテルは、三者の足の動きに応じて埃を舞わせる。乾ききった血痕が、ここもオメガの領域であることを示している。エレベータなど通電すらされていない。そのため境と安田は非常階段を昇り、宗介がエントランスの警戒をすることとなった。一人でいると、宗介はオメガの臭気が肺を侵す感覚を強くした。噛み続けたガムは味を損ない、ペパーミントの香りも大分落ち着いてきている。 「今日、この日。僕らは使命を果たす……」  呟いてから、宗介はハッとした。復讐のために鍛えた肉体と精神が、今は目的を異にしても動いている。 「境さんには随分矯正されたからな」  境は、孤児の宗介を引き取った人物の遠縁に当たる。宗介が刻まれた恐怖からの逃避で虚無に落ちる寸前、両名は顔を合わせた。今も彼は思い出す。境は宗介の眼を見て頬を突然張ったのだ。寒気が衣服の繊維をすり抜けて染みる今、彼は左の頬に手を当てる。 「甘えるな、か」  境はいくらか言葉が足りない男ではあったが、常に事実と意見を通し、芯のある発言をする。口先でなく、全身で物を語るのだ。行動を伴う意志の強さは、宗介のみならず周囲の者全てにとって憧れとなっているようだった。あの安田でさえ、境と行動を共にする際は幾分口数が増える。  通信機から境の声がする。目線を右耳の方に向けながら、宗介は聴いた。 『周辺地域に目視できる敵影なし』 「囮は有効でしたね。北側に放った動物を狩りに行っているのでしょう」 『油断するな。それは憶測に過ぎない。時速百二十キロメートルで走る化け物だ、俺たちの予想を遥かに上回って行動すると思って警戒しろ』 「分かりまし──」  瞬間、宗介は臭気の強まりを感じ、言葉を切って身を屈めた。ヘルメットの後頭部に鋭い擦過。気温を無視してどっと噴き出す汗を自覚する間もなく、体が回避行動を連続して行う。後方へ一歩大きく退がり、真横に転がり、受け身もそこそこに追撃を躱す。  オメガがそこにいた。音もなく、声もなく、ただひっそりと前肢で宗介のいる位置を貫こうとする。 『どうした』 「来ました。奴です。エントランスから入ってきました」  絶え間なく身を動かす宗介は努めて冷静に事実だけを伝える。 『六十秒持ちこたえろ』  冷静に、かつ冷酷に告げられた一分間。その時間があればオメガは二キロメートルを移動し、生命を二桁は優に刈り取る。宗介に与えられた選択は闘争か逃走の二手。本能では後者を選びたいが、道がない。すでに彼はエントランスからフロント側に追い込まれている。理性でもって抗わねばならない。  オメガにこの場で傷をつけるわけにはいかない。銃弾が擦過傷を作るだけでも、相手に復活の機会を作ることになる。ポイントアルファに居座られれば作戦が水泡に帰すことが分かっているからこそ、宗介は生半な攻撃ができない。一撃を加えるならば即時ポイントアルファへと向かう準備がなければならず、そのためには追撃を抑止できるほどの損傷を与えなければならない。  大振りの攻撃はない。鋭く長い突きばかりだ。爪は壁に深々と刺さり、宗介らの着込んだ防刃ベストの無意味さを判然とさせる。宗介の左腕に、ざくりと衝撃が走るが、自動小銃を取り落とすような真似はしなかった。  隙がない中で、しかし、宗介は二十五秒を耐えた。あと三十五秒も生き延びられるかは分からないが、現時点で彼の負った傷は左上腕の切傷のみ。これは単に、境の施した訓練の賜物としか言えなかった。  永遠とも思われる猛攻を、果たして、宗介は凌いだ。一発の銃弾が、宗介の胸を貫く寸前の爪を半ばで折り取ったのだ。衝撃によってずれた刺突の軌道は、彼の脇腹を掠めて壁へと導かれる。安田の近距離狙撃がそれを行なった。 「青木三尉、このままポイントアルファへ。自分が足止めします」 「青木、来い。あと五分しかない」  オメガに傷をつけてしまった。爆撃を待たずして、作戦行動は一足飛びに最終段階を迎えてしまったのだ。 「安田さん!」 「自分はここでは死なないと決めています。先へ」  安田の声の直後、宗介の装備にオメガの体液が弾け飛び、着弾を確認した。任せる他なかった。  行先の荒れた路面に瓦礫は増えるばかりだ。更地とは呼ばれているが、高層建築物が砕けた後処理をされていないのだから仕方のないことではあったが、目的地まで直線距離で二キロメートル、走破するには、実質的に分間四百メートル以上を進まねばならない。  背後に銃声が続く。狙撃手は傾向性と重量を鑑みて、多くの弾薬を持たない。すでに替えの弾倉も底を突く頃だろう。安田を案じる宗介は、自らの無警戒さを恥じた。 「無駄なことを考えるな。必要なものだけ持っていけ」  境はそれだけ言うと、自動小銃を捨て、前を行った。宗介も背嚢だけを残して、重量の高い装備や煩わしいガスマスクを取り払った。「死の匂い」が鼻腔を突き刺す。絶対五分圏内は、経年で死に満ち過ぎている。  日比谷通りを北上。三一九号線へ。交差する一号線に。車を避け、骨を踏み砕き、酸素を求めて乾いた空気を吸い込む。最短の道を選んでいて道程の半分にも満たない内に、残り時間は三分を切っていた。これでは爆薬の用意が格段に難しくなる。だが、境は言った。「無駄なことを考えるな」と。  宗介は軋む肺、粘つく口腔、疲労感、噴き出す汗。全てを意識から排除して遮二無二駆けた。  大使館跡が並ぶ区域に到達すると、もはや道と呼べるものはなく、爆撃の後に芽吹いたと思われる低木が瓦礫の合間で育っていた。より足場は悪くなったが、腕時計は残り時間が一分を切っていることを知らせている。進むしかない。  息絶え絶えの宗介は、ポイントアルファに踏み入った時の爆薬設置手順を想定する。可塑性爆薬に起爆用雷管を挿入し、有線で遠隔起爆を可能とするまでの流れで、やはり引っかかってしまう。  ──有効爆破範囲から離れる猶予は何秒あるというのだ。  境は当然同じ懸念を抱いているはずだ。そして、その場において誰よりも任を果たそうとするはずだ。宗介が何を言わずとも、あるいは何を言ったとて、〝確実に境は自らを犠牲にする〟という確信があった。 「最後は自分がやります」 「黙ってろ」  境とのやりとりはそれきりで、さすがに喋る余裕がなくなった。足場を選びながら全力疾走を四分以上続けている時点で限界は近かった。前を境が突き進むから着いていけただけだ。一人ならばすぐに膝をついていたことだろう。だが、この先を行けば境はこの世から消える。  ジレンマに苛まれるほどの時間はない。あと五分あった時間はもう二十秒しかない。  残り十五秒、ポイントアルファ到達、再出現位置を確認。  残り十秒、即座に背嚢から取り出した爆薬と雷管を組み合わせる。  残り五秒、まだ爆薬が半分も設置できていない。  残り二秒、まるで間に合わない。これではオメガを逃してしまう。  そして、時計が五分経過を示すアラームを鳴らした瞬間、臭気が一度に濃厚になった。  すぐ、そこに、いる。 「青木、続けろ」 「境さん!」 「続けろ!」  境の吠え声に顔を上げることも叶わず、手元を見て作業を済ませるしかない。背後で肉を裂く音がしたのは気のせいだ。境は強い。俊敏で夜目も利く。頑強な皮膚と筋肉だ。あの程度の攻撃で悲鳴を上げるはずがない。きっと気のせいだ。ぱたぱたと落ちる水音もオメガの体液によるものだ。絶対にそうだ。拳銃の発砲音もする。優勢だ。そうに決まっている。 「完了しました! 境さ、ん……?」 「よく、やったな……あとは、任せ、ろ……」  月光に影だけが浮かんでいた。細長い物が、人の形の中程と繋がり、貫き、通っている。 「あ、ああ、ああ……」 「起爆……起爆装置を寄越せ、青木」  オメガは首を捻って依然残された生命力に疑問を抱いているようだ。尾が地面を二度三度と叩く。宗介は、それを興奮の証と見てしまった。狂喜の印としてしまった。激怒に染まる宗介の瞳が、境の顔を捉える。彼は笑んでいた。 「馬鹿、野郎、寄越せよ」  その時、遠方からの弾着。オメガの前肢が半ばで抉れた。 「安田、生きて、やがるな。お前もよく、や、や、やった。だろう?」  宗介は境から受けた柔らかな言葉に、起爆装置を無意識に手渡していた。彼は後ろ髪を引かれる思いのまま、駆け出す。オメガは眼前の玩具に夢中だ。援護射撃の銃声は続かない。充分に離れた後、遮蔽物に身を隠すと、爆炎が上がる。浮かび上がる影はもはやない。宗介が任務完了を確認した後、そのまま意識を失った。別働隊が彼を回収し、空爆が行われたのはその後のことだ。  安田は左腕を失ってもなお、七百メートル超の狙撃を完遂したことで教官の地位を得た。非常に意義のある任を成し遂げたとして、境は国を挙げての葬儀を受けた。宗介は褒章を受け取る際にただ一言「少し暇が欲しい」と呟いた。彼が向かったのは、境を讃える記念碑ではなく、絶対五分圏内だ。  あの五分がもう一度戻るなら、あと五分を境と共に駆けられたなら、それ以上の喜びはないと思ってしまう。あの時の絶対五分圏内にあって、今の平和な土地にないのは憧れた上官の背中だ。どうか、もう一度だけでもあの厚い掌で頬を張ってはもらえないだろうかと考えてしまう。  ──甘えるな。  境の声が脳裏に蘇る。宗介は、頬を伝う熱いものを拭うと、彼は爆心地に敬礼した。  陽が昇り、沈み、季節が移り変わっても、彼の心は癒えなかった。ただ一つの使命感が青木宗介を治安維持活動に留めた。第二、第三のオメガが現れた北米大陸で、多くの人間が五分間の決断を迫られていたのだ。 「青木一佐、参りましょう」  安田は後方支援を担当するために同行が決まっている。宗介は、それを頼もしく思い、笑んだ。 「ああ、今度はあちらに『あと五分』を押し付ける番だ」  安田はその笑みに陰りを見るも、何も言わずに頷く。二人の復讐心は、あの五分間で強く、熱量を高めていた。  残された彼らには必要な物だった。
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