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8月10日
今日から日記をつけることにした。
あまりにも世の中の動きが激しいので、記録を残しておくと後で役に立つかもしれないと、ふと思いたったのだ。
今日はその記念すべき?初日というわけだが、どうにも筆が進まない。何しろ日記をつけるなんて習慣が全く無かったからな。今日はと言えば、いつもと同じように電車に乗って会社に行って、仕事して帰って来た。リモートワークなんてものも、結局一か月ぐらいしか続かなかったな。以前と違ったのはマスクを常に着けていることぐらいか。食事だって、結局コンビニ弁当買って、自宅でテレビ見ながら食べてるだけだし。こうしてみると何が変わったんだろう?世の中の動きが激しいから日記をつけることにした、とか言ってるそばから、自分の生活には全然変化が無いということしか書けない。馬鹿みたいだな。
でも、初日でいきなり挫折するのも癪だから、当分、無理にでも続けてみようと思う。
8月11日
今日も、いつもと変わらない一日だった。朝起きて、朝飯食べて駅まで歩いて、電車に乗って、会社に行って、仕事して帰って来た。家で買って来たコンビニ弁当食べた。
何だよ、これじゃ全く昨日と変わらないじゃないか。自分で書いてても、全然面白くない。くそ、他に書くこと無いのかな。俺の人生って、こんなことを毎日毎日繰り返しながら、何の変化もなく、年だけ取っていくのか。そう考えるとやりきれない。こんな日記を書いてると、なんだか気が滅入ってくるな。こんなこと始めなきゃよかった。早くも挫折しそうだ。
8月12日
今日、会社の帰りにコンビニに寄ったら、少し変わったことがあった。いつもこの時間にシフトに入ってるバイトの女の子が髪を染めてた。こちらも毎日同じようなパターンで生活していて、ほぼ毎日同じような時間に弁当や飲み物を買うから、割と良く顔を合わせることになる。昨日までは黒髪だったのが、今日は少し落ち着いた感じの栗色に染まっていた。
そうか、こういうことに気が付くようにすればいいんだな。細かいことでもいいから、自分から積極的に変化を見つけようとしなきゃだめなんだ。自分から変化を求めていかなきゃ、周りの変化に気が付くわけも無い。とりあえず一つでも書くことが出来て、何となく嬉しい。コツが掴めてきたかな。とにかく自分から貪欲に変化を探していくこと。
8月13日
今日は、いつもより5分程早く家を出てみた。こういう小さい変化が大事だと思ったんだが、普段と同じ道を通って、結局いつもと同じ時刻の電車に乗ってしまった。そのまま会社に行って、いつもと変わらないメンバーでいつもどおりに仕事して、同じ時間に退社した。基本的に仕事の内容がルーティンワークなので、どうしても会社では変化が見つけにくい。
やっぱりいつもと同じような時間にコンビニに行ってしまう。弁当と缶チューハイを籠に入れて、並んでいる間に、レジの女の子の顔を眺めてみる。どこか昨日と変わったところは無いかな。
マスクのせいで顔の半分が隠れてしまっているが、僅かに右のまつ毛が左より長いように見える。あと、髪の毛の分け目がほんの少しだけ右側に寄っているような気がした。あと、向って右側の髪の毛の根元に三本ほど、ほんの微かな染め残しが発見された。レジの支払いのほんの短い間に観察しなきゃならないが、集中してやると意外に見えてくるものだ。こういう小さいところに注目していれば、結構毎日の変化を見つけることが出来るかもしれない。定点観測みたいなものだな。彼女を観察することが新しい生きがいになりそうだ。ついでに名札の名前も覚えた。大友さんというらしい。何となくフレンドリーな感じがして、良い名前だ。好感が持てる。
8月16日
今日、会社で小さな変化を見つけた。数日前から気付いていたのだが、デスクの端に3ミリほどの小さな沁みが付いていた。以前からあったものか、最近付いたものか、どうでも良いから放っておいたのだが、その沁みの形が変わっていたのだ。昨日までは歪んだ三角形のような形をしていたのだが、今日見ると、ほぼ円形に近くなっていた。色もなんとなく薄れたような気がする。どんな成分か知らないが、時間と共に蒸発するような物質なのか。それとも誰かが消そうとしてくれたのだろうか。隣の席の典子ちゃんだろうか。だったら嬉しいな。何となくニヤニヤしてしまう。
会社帰りに、いつものようにコンビニに寄る。今日の大友さんは、根元の染め残しが消えていた。分け目もほぼ正確に額の真ん中に移動したように思える。俺の考えたことが、テレパシーか何かで伝わったみたいだ。そう考えると楽しくなってくる。あと、右耳の付け根の辺り、マスクのかけひもすれすれの場所に非常に小さな、ゴマ粒より小さいくらいの黒子が二つ並んでいるのを発見した。マスクはオーソドックスな白い不織布タイプでプリーツの数は三つだった。こういう細部の情報を瞬時に発見して記憶する能力がだんだん高まって来たような気がする。これも大友さんのおかげだ。彼女のおかげで俺の中に新しい能力が芽生えつつあるのだ。一度お礼を言いたいものだが、どうしたものか。そうか、テレパシーか。ひょっとしたら、本当に以心伝心で思いを伝えることが出来るのかもしれないな。きっと俺と彼女は相性が良いに違いない。
8月20日
大友さんが、最近妙によそよそしい感じがする。折角俺が毎日立ち寄っているというのに、会計の時に明らかに目をそらそうとしているように思える。なんだよ、人の気も知らないで。こっちは折角好意を寄せてやってるのに。
そう言えば、この三日間というもの大友さんに全く変化が無い。髪の毛も、黒子も、肌の色合いも、何もかも同じだ。マスクの色も、プリーツの数まで全く変化が無い。これじゃまた単調な毎日に逆戻りじゃないか。くそ、どうしてくれるんだ。あの女が明日も同じような顔でレジに立っていると思うと、それだけで許せなくなる。もう、あそこからいなくなってもらうしかない。それが一番いいことだ。新しい人が入れば、それ自体が大きな変化だし、また、その人の変化を観察していけばいいんだからな。そうだ、それが一番いい。彼女には消えてもらおう。シフトの終わる頃を狙って、店を出たら後をつけていけば、どこかでチャンスはある筈だ。
八月二十二日
今日は記念すべき日だった。
あまりにもインパクトのある出来事だったので、何から書けばいいのかわからないくらいだけど、これは是非とも書いておかなければならない。
コンビニのシフトを終えた私は、店を出て、夜道を家にむかって急いでいた。ここら辺は、比較的早く人通りが絶える場所で、真夜中を過ぎると、殆ど歩いている人はいなくなる。いつも家に帰る時は、街中にある公園を通り抜けて帰る。その方が近道になるからそうしているのだが、真っ暗な公園を通り抜けていくのはいつも本当に怖い。だが、遠回りをして他の道を通っても、人通りが殆どないことには変わり無いので、結局いつも公園を通って帰っていた。
今日も、急ぎ足で闇の中を歩いていると、ふと妙な音に気が付いた。私以外にもう一つの足音が聞こえるような気がした。間違いない。自分の後ろから、もう一人の足音が、付いてきているのだ。その事に気が付いた途端、全身の毛が逆立つような恐怖に襲われた。
急ぎ足の歩調を一層早めてみるが、後ろの足音も早まってくる。やはり誰かがつけてきているのだ。私は心臓が止まりそうになった。どうしよう。公園の周囲にはまばらに民家があるけれど、どの家も真っ暗に灯りが消えて、完全に寝静まっている。万が一の場合、大声をあげても、多分助けてくれる人はいないだろう。携帯から110番したとしても、警官が到着するまでに間に合うわけが無い。自分の手で何とかしなければ。
公園の半分くらいまで来た時、私は、本能的に走り出した。いちかばちか逃げ切れるかもしれないと思ったのだが、だめだった。急に速度を上げた足音が、後ろからぐんぐん近づいてくる。恐怖で思わず声を上げそうになった途端、ごつい男の手が後ろから私の口を塞いだ。そのまま声も上げられないまま、私は地面に引き倒された。
そんな状況で何故、咄嗟に正しい行動がとれたのか、後から思えば自分でも不思議な気もするのだが、やはり生きるための本能は全てに優先するということなんだろう。自分でも不思議なくらいの冷静さで、私はバッグからスタンガンを取り出すと、目の前に仁王立ちしている男の身体に押し当てた。その途端、「うぎゃっ!」というような声を上げると、男は無様にひっくり返った。同時に地面でチーンという金属的な音が響いた。男が持っていたナイフを取り落としたのだ。
地面にひっくり返った男は、身動きが取れずに横たわっている。いつも暗い夜道を帰るので、お守りがわりに持ち歩いていたスタンガンだが、初めて使ったのにこんなにうまくいったというのも驚きだった。
「ちくしょう……」動きは止められたが意識は飛んでないようで、男がうめいた。もう一度電撃を食らわせると、また、「うぎゃっ!」というような声を上げると、芋虫みたいに地面を転がっている。何だか面白い。月明かりに照らして顔を見てやると、やっぱりあいつだった。毎日同じような時間にやってきては、私の顔をじろじろ眺めてたやつ。本当に気色悪いったら無かった。前からよく来る客だったが、最近、特に私のことをあからさまに眺めるようになってきたので、気味悪いと思ってたら、やっぱりストーカーになりやがった。スタンガンを持ってて、本当によかった。やはり自分の身は自分で守らなきゃならない世の中だ。
携帯を出して110番しようとした私は、その手を止めた。警察に突き出したところで、この国の警察には殆ど何も期待できない。殺人未遂や暴行罪で逮捕され有罪になったとしても、どうせすぐに出てくる。そうなったら、こいつが私のところに復讐に来るのは火を見るより明らかだ。そう、自分の身は自分で守らなきゃ……
私は落ちていたナイフを拾い上げると、まだ地面に転がって動けないでいる男の側にゆっくりと近づいた。そのまま男の口の辺りをバッグで抑え込むと、男の胸のあたりに、思い切ってナイフを突き刺した。微かにバッグの下からうめき声のようなものが聞こえたが、周囲の民家には全然届かないだろう。そのまま、何度もナイフを抜いたり刺していると、やがてうめき声もしなくなった。
脈を診て、男が死んだのを確認すると、私は死体を放置したまま急いで立ち去った。一応強盗に見せかけようとして、こいつの身の回り品は持ち去ることにした。しょっていた小さなリュックを開けてみると、その中にこの日記帳も入っていたので、一緒に持ち去った。
今こうして読んでみると、あらためて吐き気がする思いだ。自分勝手な思い込みをどんどんエスカレートさせていく、ストーカー男の異常な日々が記された日記は、本当に身の毛がよだつ。自分の単調な毎日に嫌気がさしたからって、人の顔をじろじろ観察して日記につけるなんて、本当にキモいったらない。こんなやつに毎日のように「有難うございました」とか言ってお辞儀をしていた自分が恥ずかしくなるくらいだ。でも、この日記を持って帰ったのは正解だったと思う。これがこいつと私を結びつける殆ど唯一の証拠だろうから。そもそもこいつが日記なんか始めようと思わなかったら、自分の単調な毎日を変に意識することもなく、定点観測のために私の変化を探そうなんてことも考え付かなかっただろう。全く迷惑な話だ。
私の変化か……そう言う私の毎日はどうだろう……今、特にやりたいことも見つからないままに、とりあえず生活の為にバイトしてるけど、一生このまま何のワクワク感も無く、それこそ変化の無い毎日を過ごしていくのだろうか。そう考えると耐えられなくなる。私だけじゃない、別にコンビニ店員だけじゃなく、どんな仕事でもそう思ってる人は沢山いるんだろうな。丁度この男もそうだったみたいに。
でも、今日私は見つけたのだ。この変化の無い日常を打ち破り、全てを忘れさせてくれるものを。あの興奮、高揚感、脳内にアドレナリンが溢れまくる快感。柔らかい粘土に刺さるように、小気味よく内臓に滑り込んでいくナイフの手ごたえ。まるで川みたいに流れる鮮血の鉄錆のような臭い。一つのリアルな”命”が自分の目の前で消えて行く感覚。こんな気持ちは絶対他では味わえない。そう、選ばれた人間だけに許された特権とも言える。
スタンガンをうまく使えば、こんな非力な女性の私が、刃物を持った男でさえも仕留めることが出来たのだ。今日から私の毎日は変わった。この日記帳とナイフは、あの男から引き継いで、このまま使わせてもらうことにする。これからは、この新しい”お仕事”に精を出すことにしよう。獲物を選び、相手の行動を徹底的に調べ、襲撃のシナリオを練り、満を持して実行に移す。そしてここにその日々を記録していくんだ。ああ、今からワクワクしてくる。
[了]
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