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 愚痴聴き屋には休みはない。どんな時でも必要であれば愚痴を聴く。これが過酷な仕事だと言うのならそうかもしれない。話を聴くだけなんて楽だと言われてもそうかもしれない。しかし、私の中ではもう生活の一部となっており、女性の話を聴くことだけが、生き甲斐になっていた。  お客さんは、いつも通り女性だった。 「いつも結局別れはしないんです。だって私はあの人が好きですから」  女性が愚痴を溢している。私はいつも通り黙って聴いていた。 「でも一体何が好きなのかしら。考えてもあまり出てこないけど、でもしいて言うなら、声。そう、あの人の声はすごく紳士的で落ち着くの」  声が好きなのか。初めて聞いた。しかし、私は声を出そうとして止めた。若いころからの喫煙が祟って声帯の病気になってしまったのだ。手術は成功したけど、もし、私の声を聴いたとしても好きになってはくれないだろう。私が黙る理由が一つ増えた。 「あなたって人形のように黙ってばっかりで。何か喋らないのですか?」  私は口をつぐんだまま、女性の目をじっと見つめた。 「もうおじいちゃんだけど、お顔も凛々しいじゃないですか。もしかして、若い頃、浮気とかしていたんじゃないですか?」  浮気はしました。それは一杯。でも喋ることはせず反省するように深々と頷いた。 「あなたも悪い人なのね。あの人みたい。なんでそんなに口数が少ないのかしら?」  それは、私が口を開けばいつも妻と喧嘩になったからだ。やがて妻と会話をすることもなくなった。それでも離婚しなかったのはなぜだろう。 「言葉を聴かないと、人の気持ちは理解できないんですよ。楽しいも悲しいも、怒ってるときも。言葉にしないと分からない。それでもあなたは話してくれないのですか?」  私は声を出そうとしたが喉の直前で止まってしまった。声は出せるはずなんだが、もうずっと喋っていないから、今さらまともに話すなんて無理かもしれない。 「もういいです。会話をしてくれないんですね」  私は包容できなかった。  女性を縁側に残してその場を後にした。  麦の香る秋の日だった。
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