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 愚痴聴き屋をなぜ続けられているのか。愚痴を吐き出せば、彼女の辛い思い出は昇華されるはずだから。そして、それを聴き続けることが私が犯してきた罪への償いになるから。彼女の記憶から私の罪が無くなるまで、私はこの仕事を止めることはないだろう。  私はいつも通り縁側に座り、女性の愚痴を聞き始めた。 「まったくあの人は。何度いっても浮気グセが治らないんです」  私は黙って聴いていた。心の中でごめんなさいと唱えながら。何百、何千、何万回と重ねたが、それでも足りない。 「それでも尊敬できる所はあるんですよ。あの人は仕事が大好きなんです」  確かに仕事は好きだった。自分で事業を立ち上げて、それは充実した日々だったけど、でも本当は、私は家庭から逃げていたんだ。いつも支えてくれていた妻をないがしろにして、家庭の外に居場所を求めていた。 「それに、友達も多くていつも囲まれていたんですよ」  友達に囲まれていたというのもとうの昔だ。事業の先行きが悪くなるとみんな離れていった。お金だけが目当てだったから。もう覚えていないかもしれないけど、そんなとき残ってくれたのは妻だけだった。いや、いつも残ってくれるのは妻だけだった。 「でも何が好きなのかはやっぱりわからないわ。あの人とは、生まれたときからずっと一緒だったから、何かいるのが当たり前の存在なのよ」  私と妻は幼なじみで、私が18、妻が16の時に結婚した。しかし、どちらが原因かはわからないが、いや、たぶん私が原因だろう。子供はできなかった。周りからの視線が辛く、私は家の外に自分の居場所を求めようとした。だが、それは言い訳でしかない。大切なものを見失っていた。 「あ、そうそう。やっぱり声は好きだわ。紳士的な声なの。浮気ばっかりなのにね」  彼女は私の声が好きだと言っていているのに、私は彼女とどうやって会話をすれば良いかがわからない。いつも逃げていたから。 「そういえば、あなた。どこかで会ったことありましたっけ?」  昨日、会ったばかりだよ。  一昨日も、その前も会っているんだよ。ずっと愚痴を聴き続けている。  だって私と君は夫婦じゃないか。いつも一緒にいるんだよ。 「あのね。ついに泥棒猫を見つけたんですよ。あの人ったら真っ青な顔をして」  こんな思い出しか残せなくてごめんね。私は50のときに妻を実家に預けて、海外赴任のため日本から離れていた。しかし、60のときに声帯の病気になり日本に戻ってきた。その時、妻は認知症になっていた。私の顔も名前も忘れ、それでも若かりし頃の記憶だけは残っていた。私が犯した罪だらけの記憶が。  私は妻を包容して耳元で囁いた。それが愚痴聴き屋の仕事だからだ。カスカスな声は辛うじて日本語になった。 『ごめんね。美知子』  妻は私を突き飛ばした。 「ごめんねってどういう意味? 赤の他人に何が分かるっていうの? さては、あなたも浮気をするんでしょう?」  私の謝罪は届くことはなく、妻は無愛想に怒りを露にした。しかし、明日になったら忘れてしまうだろう。そして、また浮気の愚痴を溢してくるのだ。  私は縁側に妻を残して、昼御飯を作りに台所へ向かった。何度でも何度でも伝えよう。届くまで伝えよう。謝罪するしか妻の傷を癒す方法はないのだから。  雪がちらつく冬の日だった。
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