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 愚痴聴き屋を辞めようと思う。  そう決意した。愚痴を聴き続けることに何の意味があるのだろう。どんどん無くなっていく妻の記憶の中から、私の罪を掘り起こすことになんの意味があるのだろう。妻にとっての本当の幸せは……。  私は意を決して妻の座る縁側へと向かった。 「あら、あなた昨日も会いましたね」  妻は昨日のことを覚えていた。私は大きく頷いた。 「今日はとてもいい天気ね」  私は妻の手を握った。嫌な気になるだろうか。 「あなたってあの人にそっくりね。あの人もこうやって浮気をしたのかしら」    『美知子。私は君の夫の茂だよ』精一杯出した声は妻には届かなかった。私の喉はだいぶ悪化している。 「あの人も浮気ばかりなんですもの。これぐらいなら許されるわよね」  妻は私の手を払おうとはしない。私は隠し持っていた箱を付きだした。 『開けてみてくれないか?』声は妻に届かなかったが意味は通じたようだ。  妻は戸惑いながらも箱を開けてくれた。「まあ。こんなお高いものを……」中にはダイヤの指輪が入っており、私は妻の指にはめてあげた。  妻は明らかに動揺していた。私は声を振り絞って自分の名を叫んだ。すきま風のように(かす)れた声は、私の口元の空気を震わせるだけで、妻の耳まで届くことはない。それでも何度も喋った。しわくちゃの口を大きく動かして、輪郭をもたなくなった声でハッキリと喋った。 『君の夫だよ。茂だよ』  妻の愚痴を聴くことが贖罪だと思っていた。でも、それは違う。私は妻の記憶を幸せな思い出で埋め尽くしたい。そのためには、私が喋らないといけないのだ。会話しないといけないのだ。 『美知子。今からでも遅くない。素敵な思い出を作っていこう』  妻と私の距離は手を伸ばせば頬が触れるほどの距離なのに、空気の壁が立ちはだかっている。私はその壁をぶち壊そうと、ひたすら必死に声を荒げた。 「声が出ないんですか? 無理はしなくてもいいんですよ」 『ごめんな美知子。もう二度と裏切らないから』  私は優しく妻を包容した。これが仕事だからだ。いや、これが仕事だって? ふざけるな。仕事なんて言葉に逃げていたら、私はいつまで立っても妻と向き合えない。 『愛しているよ。美知子』  耳元で囁いた言葉は妻に届いただろうか。妻は私の手を軽く払った。 「すみません。私、今までこんなに真剣になってもらえたことがないので」  妻の目に涙を流したあとが見えた。  私はもう一度包容した。今度は力強く。妻を愛しているから。 『愛しているよ。美知子』  妻は私に身を任せる。  何度でも何度でも伝えよう。愛していると伝えることでしか、妻を幸せで満たす方法はないから。今からでも遅くない。辛い記憶を全て書き換えてやる。妻の涙は乾き、また涙が流れた。私は皺だらけになった指でその涙をぬぐった。  縁側に座る妻の横には私がいる。これからもずっと。  私達の本当の夫婦生活が始まった。  爽やかな春の日だった。
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