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 その高さ三十センチほどの鳥居に気付いたのは、数年前。朝の通勤時、コンパクトカーの窓ガラス越しに幾度となく眺めていた。  交通量の多い国道*号線の中央分離帯の茂みの下に佇んだ小さい鳥居。緑の中の朱色はもっと鮮やかに映えても良いだろうに、排気ガスとクラクションと走行音にまみれているせいか、くすんで見えた。  通勤時とは言ったが、毎日眺めていたわけではない。*号線は最短ルートではあったが渋滞がひどく、平時は利用しない。GWの狭間や、盆暮れ、土日など、世間が休みにも関わらず出勤せねばならない時のみ、小さい鳥居の脇を通っていたのだ。  だが、目下の緊急事態宣言が発され、にわかに渋滞は緩和された。  大手企業が在宅に切り替わった余波であり、一方の俺はパソコンなんて大嫌いが口癖の上司に付き合わされ、連日、しょっぱい気持ちで出社していた。  ――あの小さい鳥居はなんのためにあるのか。    毎朝、目にするようになったせいか、そんな疑問が湧いた。  交通量の多い国道であり、スピードが出やすく、追突事故がよく起きている。だから最初は事故死亡者の慰霊のために建てられたのだと思っていた。  だが、場所が妙だ。直線道路で見通しの悪いカーブではない。また、五百メートルほどの間隔を空けた交差点と交差点の中間に位置し、事故現場にはなりにくい気がした。  そもそも鳥居に慰霊という役割があったろうか。花やら仏像の方が適してないか。それに慰霊というには・・・・・・  考えるのは、ほんの一瞬。朱色が視界から無くなれば、意識の外へと消え去る。運転中であり、振り返ることも、写真を撮ることも、後続車が来るので立ち寄ることもできない。けれど翌日も見るから、また考える。  ある日の昼休み、俺はふと思い立ちスマホからオンライン百科事典にアクセスした。  〝鳥居〟と打ち込み検索をかける。  神社――すなわち神域を示す象徴、神域と俗界を区画する門。そんな端的な説明の後に、起源や語源や鳥居そのものの構造、形式、厳島神社や伏見稲荷などの写真映え鳥居が掲載されていた。  数え方は1基、2基。起源は諸説ある。天岩戸に隠れた天照大御神を誘い出すために鳴かせた鶏の止まり木を起源とする説、インドの寺院にみられる(トーラナ)や中国の伝統建築様式に用いられる標柱を起源とする説など。語源についても同様で、とどのつまり不明らしかった。  そこまで読んだところで、事務所の電話が鳴り、俺の昼休みも終了となる。結局、なんなのかはっきりしないまま。  その後も、小さい鳥居は俺の頭の片隅に居座り続けた。  何がそんなに気にかかるのか。  毎日眺めているうちに気付いた。中央分離帯の茂みにポツネンという特異性もさることながら、どこかしら漂う〝雑さ〟に気を引かれたのだと。  普通、鳥居の柱は円柱となっているが、小さい鳥居は薄っぺらく、安っぽかった。ベニヤ板の小切れを木工用ボンドでくっつけたというふうな。そこに奇妙さが感じられて、俺の気持ちを掻き乱すらしかった。  だが、緊急事態宣言が下げられていないにも関わらず、GWが終わると同時に国道*号線は再び混み合い、俺は以前のルートへと戻った。そうして、小さな鳥居についてしばらく忘れたのだった。  思い出したのは二月後、新型ウイルスの脅威が未だ治まらぬ七月初旬のこと。  蝉はいつもと同じく喧しく、だけれどいつもと違う静かな夏の始まりで、俺は見知らぬ田舎道にいた。といっても自宅から車で三十分ほどの隣町だ。母親の友人宅へ届け物をした帰りだった。  土曜の昼下がりの昼寝中に起こされ母に遣いを命じられたが、このご時世に不要不急の届け物をせんでもと抗すれば、年寄りが出歩くのは毒でしょ、どうせ暇なくせに、あと卵買ってきて、と三倍になって返ってきた。これ以上言い付けられては堪らないと孝行息子は起き上がった。   「フクイさん、先月、アンナちゃんが行方不明になって気落ちしてるから、元気付けたいのよ」 「アンナちゃん?」  玄関先でお取り寄せ菓子のお裾分けを受け取りながら、聞き返した。老親は、自分の知人は息子も既知のものと話す。柴犬よ、と母は何を今更といった感で息子を見た。そして、人懐こくて可愛かったの、と呟く。  アンナちゃんと言うからてっきり孫娘でもいなくなったのかとぎょっとしたが、なんだ、犬か。いや犬の不在はもちろん大きい。俺は亡き愛犬に思いを馳せ、遣いを承った。  教えられた住所が間違っており、ナビの案内した先が畑だったことには軽く絶望した。道を訊こうにも、宣言下、そして夏の陽射しに人っ子一人出歩いていない。コンビニも閉まっている。  しばらく付近を車で走っていると、個人情報保護が叫ばれて久しくまだ存在していたのかと驚くべき住宅地図看板を見つけ、俺はなんとかフクイさん宅を見つけ出した。そうしてインターフォン越しの会話をして玄関先に菓子を置き、無事、遣いを果たしたのだった。    そんなわけで、お茶の一杯も出されなかった俺はひどく喉が渇いていた。  夏の夕暮れ、早やコンビニは閉店、喫茶店は言わずもがな。周囲は青々と波打つ田んぼ一色でスーパーも見当たらない。  偶然見つけた自動販売機で天の恵みと言わんばかりに買ったスポーツドリンクで喉を潤し一息ついた時。俺は自動販売機の脇に佇む小さい鳥居に気付いた。  大きさといい、つくりといい、それは中央分離帯の鳥居と酷似していた。車を路肩に駐めて、まじまじと見下ろす。なんとはなしに思い出したのは、白や黄色の文字で聖書を引用した言葉が書かれた黒看板だ。全国各地の郊外で目にする、あれ・・・・・・その神道版、とか?  悪寒が走った。田んぼを渡る風は涼しく、汗が冷えたせいに違いなかった。    ふいに視線を逸らせば、鳥居の背後に掲げてある看板に目が留まる。 《ゴミを捨てるな!》  我知らず詰めていた息を吐いた。そういうことか、と。  小さい鳥居はゴミの不法投棄防止のために設置されているのだ。鳥居を汚すなんて罰当たりという日本人の心理を利用しているのだろう。  俺はスマホでいくつかの単語を打ち込み検索する。すると、出てくる出てくる、ポイ捨て禁止、立ち小便避けの各地の小さい鳥居。果ては通販サイトまで。前述のオンライン百科事典『鳥居』のページにもずっと下方で鳥居風の置物として掲載されていた。  中央分離帯の小さい鳥居も意図は同じだろう。道路に転がる茶色い液体の入ったペットボトルは、切羽詰まったドライバーのあれとか聞いたことがある。そういう不届き者を諫めるための模倣の置物。    俺は謎を解き明かし、晴れ晴れとした心地になった。  そうしてスポーツドリンクを飲み干し、車に戻ろうとする。と、空のペットボトルを取り落とし、蹴飛ばしてしまう。転がった先は鳥居の下で、なんの気なしに手を伸ばした。  ふいに、その小さい鳥居の奥に靄が見えた気がした。夕陽に溶け込み、陽炎かとも思ったけれど。  再び悪寒が走った。だけれど屈み込み、勢い伸ばした右腕は止まらない。  指先が鳥居の下を潜った瞬間、生温く湿った感触を覚え、引っ張られる力を振り切るように腕を抜いた。  右手を左手で包み込むようにしてよくよく見る。どうともなっていない、が。  動悸激しく、息荒く、全身に汗をかいていた。西日がじりじりと背を焦がす中、じっと右手を見下ろして。  俺は鳥居の後ろからペットボトルを拾い上げると車に乗り込み、急発進させた。    小さい鳥居の話は、これで終わりだ。追記するならば、卵を買い忘れて叱られたことぐらいで。  それから今日にいたるまで、俺は小さい鳥居を見ていない。電車通勤に替えたから。  新型ウイルスの脅威はその後も続いたが、日常は坦々としていた。  八月のある日、俺はオンライン会社説明会の資料を製本していた。申込者の自宅に資料を郵送し、それを読みながらスマホもしくはパソコンにて受けてもらうのだ。入社前の人間を感染から守るため出勤――そこはかとない徒労感に襲われるが、黙々と作業していた。上司がA4の資料をA3用紙に印刷してしまい、わざわざ裁断しなくてはならないことに嫌気が差していたからではない。  裁断機は切れ味が悪く、一度に多くは裁ち切れないため、繰り返す。長時間やっているうちに西日が射し入る時刻となり、背中が焦げ付いた。あの日のように。  手を付いて立ち上がりカーテンを閉めようとしたその時、差し入れだよ~と脳天気な声が響き、やってきた上司が飲み物が入ったレジ袋をどすんと机に置き。  裁断機の刃が落ちた。  自分の右の人差し指を止血し、同僚の車で病院へ向かった。道中、労災になるよねなるよねと騒ぐ上司に、俺もぼんやりしてたんでと謝りながら。  処置が早かったため、俺は右の人差し指を失わずに済んだ。多少の後ろめたさを覚えつつも労災を申請した。  断っておくが、労災を躊躇ったのは上司を慮ってとか、殊勝だから、とかではない。そもそも裁断機の刃は上がっていなかった(・・・・・・・・・)から。  俺は小さい鳥居に右手を潜らせてからずっと警戒していた。車通勤を止め、自炊もせず(実家暮らしということもあるが)、裁断機の刃も几帳面に下ろしていたのだ。    ――にも関わらず、連れて行かれてしまった。  どこに、なにに、どうやって、とは預かり知るところではない。  ただ、オンライン百科事典に端的に書いてあったように、鳥居が〝神域と俗界を区画する門〟ならば、鳥居を模した置物が逆にそうなっても(・・・・・・)おかしくはないと思う。    神域を冒したならば抗えない。引かれる。そういうものなのだろう。  俺の人差し指は見かけ上元通りになっているが、時折、感覚を失う。そんな時、あちら(・・・)で人差し指が何をしているのか、俺は途方に暮れてしまうのだ。  余談だが、アンナちゃんは存外元気なのではないかと思う。なぜならたまに右の人差し指が生温く湿った感触に包まれるから。ちょうど、亡き愛犬に舐められたのと同じように。  フクイさんにはもう悲しまず、新しい犬を迎えてはと母づてに勧めようと思う。
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