2 眠りの神とのソフレ契約

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2 眠りの神とのソフレ契約

「え、お姉さんヒュプノスに会いたいのかい? うーん、連絡はしてみるけど…何せ気まぐれな人だから。来なくても気を悪くしないでね」 マスターはそう言って、手元の携帯を操作した。 愛衣としては藁にも縋る気持ちであったので、せめて眠気がくるよう願いながら注文したワインをグッと喉に流し込んだ。あまり酒には強くないので、ワインを数杯飲めば薬無しでも寝付けるかもしれないとの算段であった。 この三ヶ月間、自力で眠れた事は一度も無かった。 睡眠導入剤は処方されてはいるが、人間の三大欲求のはずの睡眠を薬に頼らなければ得られないという事は愛衣にとっては理解し難い現状であり、出来るだけ自然に睡眠をとりたいと摂取を控えていた。 その為、何度か肉体が限界を迎えて気絶をする事もあった。 入浴中にはよく気絶して湯舟で寝入ってしまい、いよいよ事故を起こしそうになってしまった為、最近は立ったままシャワーで済ませるしかない現状になっていた。それでもまれに立ったまま寝付きそうになり、壁に頭をぶつける回数も増えていた。 愛衣が二杯目のワインを飲み干した時、バーの入り口のドアベルが来客を告げた。マスターが『ヒュプノス』へ連絡を入れてからまだ十分程度しか経っていない。眠りの神様ではないだろうと、愛衣が視線も向けずにナッツを皿の上で転がして遊んでいると、先程の客はマスターと短く言葉を交わした後に真っ直ぐ愛衣の隣の椅子を引いて座った。椅子を愛衣に寄せて座ったので距離感がとても近い。 女一人で飲んでるとこれだから…と愛衣が苛立って横目で相手の方を見ると、相手の男はジッと愛衣の方を見ていたので驚いて思わず後ろへ仰け反った。 男が慌てて愛衣の背中へ腕を回して支えてくる。 「驚かせてごめん。マスターから私に会いたがってる人がいるって聞いて来たんだが…もしかしなくても、理由はコレかな?」 男は触れるか触れないかの距離で、愛衣の目元を拭うような動作をした。 照明の淡いこの店内でもはっきり分かる程、隈が浮き出ているのだろう。 愛衣は隣の男が眠りの神様だと認識すると、姿勢を正して頷いた。 「初めまして、貴方が『ヒュプノス』さんですね。私は神野(じんの)愛衣(めい)と申します。…貴方はどんな相手でも眠らせる事が出来るって伺ったのですが…本当ですか?」 気持ちが急く余り、不躾な切り出し方になってしまって愛衣は顔を赤くした。 慌てている愛衣を男は愛でるようにクスクス笑いながら答える。 「ご丁寧にどうも。私は間宮(まみや)(ゆづる)です。…誰でもって、またマスターが盛って話したのかな。誰でもって程、多くの人と一緒に寝た経験がある訳じゃないよ。ただ私が付き合ってきた相手は全て、私と一緒に居るととても眠くなってしまうみたいでね。一緒に寝ても欲より眠気が勝るって、安心感があり過ぎるって振られ続けてきたってだけなんだ」 苦笑いしながらそう言った間宮を、今度は愛衣がジッと見つめた。 間宮の話が本当なら、失恋話に尾ひれがついて『ヒュプノス』の名前が付けられたとの事だった。 確かに落ち着いた低いトーンの声や、慈愛に満ちたような眼差しは眠気を誘う要素なのかもしれない。けれどそれだけじゃ、自分も本当に眠れるのか分からなかった。愛衣は好奇心と睡眠欲が抑えきれず、間宮の手元を見る。 …薬指には、指輪はなかった。直前に外したような跡もなかった。 あの元彼にされた事を考えれば、少しくらいこの初対面の優男に痛い目を見てもいいと感じて、愛衣は間宮の優しい瞳をジッと見ながら口を開いた。 「今日会ったばかりで不躾なんですけど…私とソフレになってもらえませんか?」 間宮はきょとんとした顔をした後、少しの間が空いた。 愛衣は自分が恥ずかしい事をしている自覚はあったが、酔いと覚醒状態の脳が反発し合って…どうしてもこの男と寝てみたい気持ちを誤魔化せなくなっていた。 「コレは辛いよね。何があったか知らないけど、私で力になれるなら構わないよ」 間宮は今度こそ愛衣の目元の隈に優しく指で触れて、「じゃあ、今日から私達はソフレということで」と告げる。 愛衣が思わず表情を綻ばせると、間宮はまた可笑しそうに微笑した。 素早く会計を済ませると、愛衣の手を取って席を立たせる。 「まずは私が『ヒュプノス』の名前に相応しいか、試さないとね?」 「よ、宜しくお願いします」 勢いでソフレを持ち掛けたものの、愛衣は元彼との付き合いが長かったのでソフレなんて関係の男性がいたことがなかった。 初めてのソフレが眠りの神の異名を持つ男となり、連れ立って歩きながらも愛衣は心臓が痛いほどに緊張しているのが自分でもはっきりと分かった。
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