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1 神野愛衣は眠らない
何故不幸とは立て続けに降り掛かるのだろう。
その一言すら上手く言葉に出来ない程、心は疲れ切ってしまっていた。
◇◇◇
もう三ヶ月も前の話じゃないか。そう言って軽く流す人もいるだろうが、神野愛衣にとってはたった三ヶ月前の話にしか過ぎなかった。
三ヶ月前のある夜、高校時代から交際して…就職と共に同棲し始め、もうすぐ同棲五年目を迎えるはずだった恋人が部屋を出て行った。
合コンで一目惚れしたんだ。何でもない事のように言って、長年一緒に居た恋人はあっさりと荷物をまとめて出て行った。『何か、長く一緒に居過ぎて女だと思えなくなった。もう愛衣にドキドキしないんだよね』
…まるで自分には非はありません。といった表情の元恋人に、愛衣は怒る事も泣く事も出来ず、ただ固まってしまったのだった。
それが余計に相手を苛立たせたようで、完全なる逆切れで舌打ちをした後、
『お前のそういう無感情なとこ、一緒にいて疲れる。何考えてるのか分かんねーよ』
傍から見たら平常時のような顔でも、愛衣は傷付いていた。
ずっと一緒に居たからそういう所も理解してくれているものだと思っていたから余計に悲しくなってしまった。
その日から寝る時にはベッドで寝るのは一人と一匹になってしまった。
愛衣が実家で中学生の頃から飼っていた愛猫のリオン。野良でフラフラしていた所を保護して以来、自分に一番懐いていたから実家から連れ出した愛猫。
特に美猫でもない普通の黒猫であったが、兎に角甘えん坊でお風呂にもトイレにも愛衣の後を追って来た。寝る時にはまるで自分の方が愛衣の恋人のように寄り添って眠っていた。
リオンを胸に抱き寄せて、愛衣はベッドで静かに泣き続けた。
…そんなリオンも、恋人が部屋を出て行ってから二週間経った頃には老衰で眠る様に亡くなってしまった。いつものように仕事から帰宅すると、既にリオンは部屋の隅で息を引き取ってしまっていた。
最初はリオンの死を理解出来なかった愛衣であったが、時間が経つ毎に冷たく固くなる体にやっと声を上げて泣いた。
リオンを埋葬してから、愛衣は眠り方を忘れてしまった。
眠る時にあった体温と安心感を一度に二つ失った愛衣は、ベッドに入ると自然と涙が流れてしまい、自力で眠る事が出来なくなってしまったのだった。
あの日から三ヶ月。
睡眠障害を抱えた愛衣は時折、夜の街を徘徊するようになったのだった。
眠らない夜の街なら…眠れない自分も異常には映らなかったから。
ある夜ふらりと立ち寄ったダイニングバーで、愛衣はその店の常連らしい『ヒュプノス』と呼ばれる男の存在を知る事となる。
どんな相手でもぐっすり眠らせる事が出来る。
それは今の愛衣にとって何よりも魅力的な男性の条件になり得た。
愛衣は隈のとれない目を輝かせ、カウンター越しのマスターに身を乗り出す。
「私、その人に会ってみたいです」
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