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ふうりん
縁側で 風の音ききて 夢うつつ
瞼とじれば 苦きふるさと
チリン、チリーン
繰り返す季節。
繰り返す夏。
その度に蒸し返す記憶。
私は五年ぶりに帰省した実家の縁側で、一首詠む。
軒先の特等席でその存在感を知らしめている風鈴が、朝の少しひんやりとした風によって小さな音色をたてる。
ガラスの身を纏い、小さな金魚鉢をひっくり返したような姿。その金魚鉢の中で気持ちよさそうに赤と黒の金魚が泳いでいる。鈴の音はまだ小さくて、聞き耳を立てていないと聞き逃しそうだった。
平屋造りで畳のある和室から続くように縁側が伸びている。
縁側の先には猫の額ほどの庭が存在し、ちょうど背をぐんぐん伸ばした向日葵たちが綺麗に花を咲かせていた。お腹いっぱいになるまで陽を浴びようと顔を上へ向け自己主張する。我先にと自己主張する人間のようだと可笑しくて鼻で笑う。
暇さえあればせっせと花いじりに精を出す私の母。盆栽好きの父は三年前に肺がんで他界している。母は庭いじりの好きな父の影響から元々の花好きも相まって、のめり込むのにそう時間は必要としなかった。
私がまだ高校生の頃だ。
障子を明け放し、この縁側にドシリとあぐらをかいて分厚い小説を読み耽るのが好きだった。母はキンキンに冷えたスイカと手を拭うおしぼりタオルを、私が座る横にそっと置いていく。
時折鼻歌を交えながら庭いじりをしていたあの頃の母の姿を今、瞼を閉じて記憶を辿る。庭先で花の手入れをしている母も、こうしてみると随分歳を取ったと感じる。
田舎を離れ、単身都会暮らし。
帰ろうと思えばいつだってここへ帰れた。母も父が他界し何かと男手だって必要だろう。だが、なぜ私は帰ろうとしなかったのか。
教師生活の中で、かつて生徒であった彼女のことが頭の片隅にいつもこびりついていた。
一瞬たりとも忘れたことはない。
うなされて夢にまで出てきたこともあった。ふいに思い出せば胸が痛み、眠りが浅くなる日々が続く。
右の手のひらを見る。
瞳に水が溜まり目が霞み小刻みに震えだす。
私はかつて一度だけ自分の感情のままに彼女の頬を平手打ちしている。あの時の、もののけでも見るかのように怯える彼女の瞳が、今でも脳裏に焼きついて離れないのだ。
まだ冬を迎える前の、木々の葉が色づきを見せる季節の頃。
彼女が当時中学三年生。私は音大卒業後、音楽教師となり当時二十四歳。
校内合唱コンクールの開催を控え、生徒達が選んだ候補曲の中から私が選出し決定する。
決定したクラスごとに歌唱する曲のタイトルが書かれた紙を持って、三年生の教室がある廊下を歩いていた。放課後ということもあって多くの生徒が私の周りに集まる。
生徒達はその紙に記された内容が選曲された曲名が書いてあるのだと悟り、ひとりの生徒が紙を一枚取っていく。
それからは堰を切ったように私の抱えていた紙が他の大勢の生徒達によって奪い取られた。
その様はまるで、うっそうとしたジャングルで食料に目星をつけた猛獣たちが、その後確保し、骨の髄までむさぼりつく──という光景に似ている。
目の前で繰り広げられる何とも言えない情景に理解しがたい怒りが込み上げ、私の脳裏をあっという間に埋め尽くした。
最後の一枚を取ろうと手を伸ばしたのは忘れもしない彼女だ。
足元に広がる無数の散らばった紙。
破れた紙。
踏まれた無数の足跡。
血流が一気に流れ込むかのように、怒りの矛先が全て私の右手のみに込められる。
私は彼女の伸ばしかけた手を振り払い、彼女の頬めがけて思い切り平手打ちしたのだ。
誰に怒りをぶつけるでもなく自らの感情に任せて罵った。
この状況が耐えられなかった。
私は何て器の小さな人間なんだ。
皆に注意すればよいことを、たった一人の彼女にだけ怒りをむき出しにしたのだ。
その場は一瞬にして凍りついた。
いい加減踏みつけられ破れた紙。
その紙を奪い合った生徒達が拾い、左手に持つ紙の上に無言で置いていく。
彼女は「ごめんなさい」と謝り、その場から静かに立ち去った。
その一件があって私はすぐに他の学校へと移動になった。
私はまだ彼女に謝罪していない。
あれからどれほどの屈辱感をもって生きていたというのだろう。
どれだけの理不尽さと恥辱を私から受けたのだろうか。
私は彼女が受けた痛みの重さを測る術はない。
私の右手の痛みが消え去るのは、ゴミくずを捨てるかのようにいつかは消えて無くなるのだろう。だが、彼女の受けた頬の痛みは感覚的でなくとも、ずっと残っている筈だ。
***
今から約一ヶ月前のこと。
彼女が在籍していた当時中学三年生の同窓会通知の往復葉書が私宛に送られてきた。
今思えば当時の自分は教師として甘く、青かった。自分のことで精一杯だったのだ。
別れの日、あの件に関わった生徒達は涙を流し私に謝罪の言葉を口にした。私の落ち度が招いたことによる突然の人事異動だというのに、彼ら生徒達はありったけの温かい言葉で私を送り出してくれたのだ。謝らなくてはならないのはこの青く、甘ったれた半人前教師の私だというのに。
だが、そこに彼女の姿はなかった。
彼女に対して目の前で行われた私の卑劣な行動と言動で、彼ら生徒達を深く傷つけ恐怖だけを植え付けてしまった事実は、どう足掻いても消せるものではない。
私は懺悔のつもりで教師生活を全うしようとあの日から心に誓ったんだ。
庭に少しばかりの木々がある。
幹につかまる蝉が、短い一生を全うするため懸命に伝えようと響かせる。風の音がより一層、夏の夕暮れを作り出していた。
私は重い腰を上げ夏用のスーツに袖を通す。
私を──今更受け入れてくれるだろうか。
二十歳になった彼女は私のことを受け入れてくれるのだろうか。
嗚呼、情けない。この期に及んで弱気になり決心が揺らぐ。この同窓会に彼女が出席することすら分からないというのに。
重たくなった足を引きずるように歩けば、見慣れた校舎が視界に飛び込んでくる。皮肉なもので楽しかった思い出ばかりが走馬灯のごとく一瞬にして脳内スクリーンに映し出された。
──ふと足が止まる。
時間も止まったかのように私が見ている赤く広がる夕焼けも染まる速度を落とした。
「先生、お変わりないですね。元気そうで何よりです」
「君は、水野なのか······」
「はい」
「あの時は本当にすまなかった。謝って済むことではないけど、今更何だよって思うだろうね。それでも僕は君に謝りたかった。これからの教師生活も君への懺悔として償うつもりだ」
「そう思う先生は、もう充分に償われています。だからこれからは自分をもっと大切にして生きてください」
止まっていた時間が巻き戻るかのように少しづつ動きだす。
彼女はゆっくりと私に近づいた。
二十歳になった彼女は見違えるほどに美しい女性になっていて、直視できずに視線を地面に落とす。だが私は勇気を出して、ゆっくりと視線を上げ彼女を見つめた。
自然と右手が動きだす。
気づけば私の手のひらは彼女の頬へ優しく触れていた。
止まっていた赤く広がる夕焼けも速度を上げて藍色の世界へと移動し始める。お互いの鼓動の重なる音が呼吸を少し荒くする。
軒先で静かに揺れる風の音も、私の止まっていた時間を再び動かした。
夜雨傘 藍に秘そめし 君の瞳に
塞ぐ心中 去りて彼方へ
その夜、私は縁側で蚊取り線香を焚いた。
生温い夜風と風の音に纏われながら、また一首詠んだ。
実家に置きっぱなしにしてあるディスクを漁れば懐かしいハードロックがわさわさと出てきた。もう一度、青春を謳歌してみるのも悪くない。
チリン、チリーン
彼女のことをもっと知りたいと思ってもいいでしょうか──。
夜風に揺れる風鈴に願いをかけてみる。
今宵奏でる音は私の心を晴れやかなものにするようだった。
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