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そしてその日は何事もなく、最終コマまで終えた。
学部の友人と分かれた蒼矢は、次回の講義に必要な資料を揃えるために図書館に寄っていた。
夕日が差し込む室内でしばらく引用論文を集めると、少しだけ…と席に座り、資料を読み込み始める。
「……」
昨日の一連の出来事で緊張した時間が続いたこともあり、あまり熟睡できなかった蒼矢は、頬杖をついて、うつらうつらと舟をこぎ始める。ほどなくして、意識が暗闇の中に入っていった。
刹那、室内の明度がぐっと落ちる。
うっすらと聞こえてきていた館内別室の人の声が、不自然に消える。蒼矢の居る室内が、耳鳴りのするような無音の空間となる。
その室内に、突如蔓田が現れる。
ゆったりとした余裕のある動作で蒼矢に近付いていき、真隣の席へ横向きに腰掛ける。
寝落ちしている蒼矢は、この不穏な変化に全く気付かない。
「やはり、この人間が最もそそるな」
そうつぶやくと、蔓田は蒼矢の顔をじっくりと観察し始める。
白くきめ細かな肌にかかる黒縁眼鏡の奥に、長い睫毛が被さる目元が見えた。ついで、血管の浮き出た逞しい手を伸ばして焦茶の髪をかき上げると、さらさらと零れ落ちる髪の隙間から華奢な首筋が露わになる。手はゆっくりと移動していき、頬と顎のラインを伝い、親指で唇を軽く撫ぜた。
「…ん…」
微かに声が漏れるが、蒼矢の目は開かない。
続いて蔓田は彼の襟口に鼻を近付け、深く息を吸い込んだ。
そのまま襟元に手をかけようとする衝動を抑えつつ、蔓田は一人満足そうに息をつき、口角を上げた。
「…間違いなく至高品だ。俺のものにするとしよう」
しかし先ほどの蒼矢の匂いにやはり我慢できなくなったのか、指で彼の口元と顎を押さえ、そのまま顔を近付けていく。
「!!」
が、何かに気付いてさっと距離を置く。やや驚いたような蔓田の視線は、蒼矢のジャケットの内ポケットあたりに注がれていた。
突然淡く広がりだす、青い光。そのほのかな光の元は、蒼矢が普段から肌身離さず携帯しているペンダント――もとい、『セイバー』に変身するための『起動装置』だった。
「…」
蔓田は席を立ち、一歩下がって蒼矢を見る。
改めて観察し始め…硬くなっていた表情をすぐに戻し、歯列を見せながらにやっと嗤った。
「尚更良いじゃないか」
ついで、空間に溶けるように消えて無くなる。
室内の明度が、切り替わったように元に戻る。
「……、」
ふと、蒼矢は目を覚ます。
いつの間にか寝入ってしまったことに気付き、やや慌てるが、覚えている景色から比べそれほど夕日の傾きが変わっている様子はなく、時計を見てもほんのひと時だったようだ。
「烈に電話しないと…」
いくらか夢うつつな様子のまま携帯に手を伸ばし、広げていた資料を片手で整理し始めた。
胸元のペンダントはいつも通り、何事もなかったように静かにポケットに収まっていた。
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