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第一部/6 消えない過去
港まで戻ってきたところで、シセネは、ふと足を留めた。
白い亜麻布の帆に風を孕んだ船が何隻か、港に停泊している。数日前には港にはいなかった船ばかりだ。
桟橋には、積荷を下ろそうと待ち構える荷運び人たちや、積荷の目録から税金を計算して徴収しようと帳簿を手にしている役人たちが並んで、忙しく働いている。その中に、さっきクエンラーの館の前でぶつかった、大柄な身なりのいい男がいた。停泊する船の甲板で、部下らしき男たちを怒鳴りつけている。よほど関わり合いになりたくない男なのか、その一画からは誰もが眼を逸らし、遠巻きにして近づこうとしない。嫌な感じだ。
けれど、あの男はあんなに声を張り上げて、一体何をしているのだろう。耳を澄ませながら眺めていたとき、ふいに、肩に誰かの手が置かれた。
「シセネ」
「うわぁあっ」
思わず声を上げて飛び退ってから、彼は、驚いたような顔で立っているのが見知った顔であることに気が付いた。
「おい、おい。どうした」
「なんだ…サプタハかぁ…」
ほっとして、シセネは胸を撫で下ろした。指に、首から提げている袋が触れる。サプタハは、いつもの穏やかな笑みを浮かべて少年を見下ろしている。
「なんて反応だ全く。こっちが驚いた。何をしてる? こんなとこで」
「お使いで、奥様の手紙を届けに行った帰り…。船が一杯いるなって思って…。サプタハは? 仕事じゃなかったの」
「仕事さ。その船が、奥様の船でな」
男は、あごをしゃくって一番近くにある大きな船を示した。
「今、荷物を運び下ろして仕分けしてる」
「この船?」
シセネは、甲板の真ん中にすっくと聳え立つ一本柱を、のけぞるようにしながら見上げた。大きな一枚布の帆は、今はすべて巻き上げられて帆ゲタに縛り付けられ、高いマストの先には旗印がつけられている。奥様の船というのが、こんな大きな船だとは思ってもいなかった。
「はは、びっくりしたか。口が開いてるぞ。どうだ、中を見ていくか?」
サプタハに連れられて、シセネは船の甲板からぶら下がる縄梯子をよじ登った。
甲板の上から見下ろす港は、今までとは違った眺めだった。
港のほうから差し伸べられた何本もの渡し板は、荷物を運び下ろす船乗りたちでごった返している。桟橋の上には詰み下ろされた荷物が所狭しと積み上げられ、書記たちがそれらの品目と量を記録し、次々とより分けていく。
人の動きが、港の活気が、船の上からならはっきりと見える。それは、…今まで一度も体験したことのない、どこかわくわくする視界だった。
「この船が運ぶのは、大きな街でしか使わないような高価なものばかりだ。香木や乳香、香辛料、上等の布。いくらかは税金で取られるが、大半は神殿や、お偉方のところで使われる。下流のほうの街を廻っては、一月か二月に一度は、こうして商品を積んでここへ戻ってくるのさ」
「へえ…」
日差しを浴びて白く輝く建物、きらめく水面。
「それから、あれは州知事さんの船だな。公務で上流の、王様の住んでいる都まで行ってたんだ。今お戻りらしいぞ」
サプタハが隣の、一際大きな船を指す。そちらも立派な船で、甲板の上では船員たちが忙しなく走り回って、亜麻布の帆を巻き上げている。つい今しがた着いたばかりらしく、船の上から投げられた縄を港で水夫たちが引っ張り、桟橋の端へと誘導していくところだ。
やがて船が岸にしっかりと固定されると、船の中から粗末な腰布だけを付けた男たちが重たい足取りでぞろぞろと降りてきた。シセネはぎょっとして、思わず隣にいるサプタハの腕を引っ張った。
「あれは何…?」
振り返ったサプタハが、ちょっと眉を寄せる。
「ほう、ありゃあ債務奴隷だな。」
「奴隷? 罪人でなくて?」
そう思ったのは、男たちの首に枷のようなものが嵌められていたからだった。おまけに鞭でどやしつけられて、まとめて家畜のように何処かへ連れて行かれようとしている。
「罪人か…。まあ、似たようなものかもしれんな。税が支払えなかったり、誤魔化しをしたりして、罰として労役を課された連中だ。債務が返し終われば自由になれる。」
「…返し終わらなかったら?」
「十年でも二十年でも、働き続けるまでさ。」
言ってから、サプタハは、肩をすくめた。
「わしも昔はああだった」
「えっ?」
驚いて、シセネは思わず男の顔を見上げた。
「お前くらいの年に、親兄弟の債務を背負ってな。一生かけても返せんくらいの額だったが、奥様が肩代わりしてくださったのだ。だから、わしは奥様にお仕えしている。」
かすかに細めたサプタハの目尻には、細かな皺が浮かんでいる。
「それって…いつのこと?」
「十年と少し前か。奥様が嫁がれてすぐの頃だろう。だが、お前には関係のないことだ。いらんことを話したな。忘れろ」
大きな手でシセネの頭をわしわしと撫で、サプタハは、船尾のほうへ離れていった。かき回された髪の毛をなでつけながら、シセネは、去って行く広い背中を眺めていた。
「ほれ! きりきり歩け!」
ぼんやりしていた彼の注意を引き戻したのは、桟橋のほうから聞こえてきた怒鳴り声だった。
見ると、さっきの身なりの言い男が鞭を振り上げ、船から降ろされた奴隷たちをどやしつけている。枷をはめられているせいもあって、奴隷たちは巧く歩けない。だのに、男はひっきりなしに怒鳴り、急かしつづけていた。
シセネは、一列に繋がれている最後尾に、自分と同じくらいの年頃に見える少年が一人、混じっていることに気が付いた。
「あ、…」
痩せて、足がふらついている。縄で一列に繋がれているせいで、前を行く大人たちの歩幅に合わせようとして懸命に足を動かしているが、追いつけずに、半ば引きずられるように連れて行かれる。シセネは思わず船べりから身を乗り出していた。
「何をぼやぼやしている。歩け!」
鞭が振り下ろされ、ぴしりと肌を打つ音がシセネのところまで聞こえてきて、彼は思わず肩をすくめた。まるで自分が打たれているような気がしたのだ。
(そんなに打たなくたって…)
喉元まで出掛かった声はしかし、声にはならなかった。
言ったところで、たとえあの男の耳に届いたところで、意にも介されないに違いない。
それに彼らは、税を払えなかった人々なのだ。罪人だ。――罪人にかけられる温情など、無に等しい。
やがて奴隷たちの列が消えてゆくと、港にわだかまっていたどこか気まずい雰囲気はあっという間に融解し、元通りの賑わいが戻ってきた。知事の乗る大きな船の後ろからは、別の積荷を積んだ船がやってきている。
新たに訪れる者、去ってゆく者。港にはひっきりなしに人が出入りし、威勢の良い掛け声とともに品々が行き交い、活気が渦巻く。
(あんなふうに、なりたくない…)
彼は、胸元に提げたままの袋に手をやる。
誰にも咎め立てされることはなくても、自分自身は知っている。
自分のやってきた罪は、無かったことには出来ない。だが、くびきを嵌められて、鞭で追い立てられるなど、絶対に嫌だった。枷を嵌められた人々が、うなだれ、足を引きずりながら去っていった方向を眺めながら、シセネは、何度も念じた。
自分は、あの人たちとは違うのだ、と。
ああは、…絶対にならないのだと。
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