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第一部/1 罪人と黒い犬
照りつける日差しの中、赤茶けた崖には熱を帯びた陽炎が揺らめいている。
鳶の鳴くような、女性たちの哀しみの声が長く尾を引いて谷間に反響する中を、葬列がしずしずと進んでいく。
嘆きの声を上げるのは、先頭を往く乱れ髪の泣き女たちだ。粗末な衣を纏い、長い黒髪を振り乱しながら、両手で足元の砂をすくっては、自らの長い髪に降り注ぐ動作を繰り返している。嗚呼、と女たちが声を上げれば、葬列の中ほどを歩む男がちりんと鐘を振り、布に包んだ死者を板に載せた担ぎ手の男たちは死の世界への道程を踏みしめるかのように、一歩ずつ歩んでいく。喪主は深く布を被り、その後ろに控えている。葬列の行く手に口を開けて待ち受けるのは切り立つ岩の裂け目だ。
"死者の谷"。
そこは、近隣の住人たちからそう呼ばれていた。
葬列の通り過ぎる時、川辺の緑地で畑を作る近在の農民たちが顔を上げ、一瞬だけ好奇の眼を向けるが、すぐに視線を手元の自分たちの仕事へと引き戻す。墓所の集まる谷間に向かうこの道で、葬列は、ほぼ毎日のように繰り返されるごく有り触れた光景だったからだ。
その葬列を、谷の入り口の崖の上に野犬のように這いつくばった一人の男が、まるで獲物を狙うような抜け目ない眼差しで見つめていた。低く腰を下げたまま、巧みに岩陰を行き来するその姿はまるで狒々のようで、崖の下からは決して見えない。やや下がった後方ではもう一人、少年が同じように、やや腰の引けた様子で同じように岩陰に身を潜めていた。
「へへっ、船着場の噂は確かだったな。ありゃあ、どこか名の知れたお大尽の家からの葬列に違えねえ。」
満足げに呟いて、男は深い皺の刻まれた日焼けした顔を歪めた。口元に覗く歯は茶色く染みついて何本か抜け、額に巻いた布の間から零れ落ちる薄い髪は真っ白だ。だが、身体は油断なく引き締まっている。
ご機嫌な男の後ろのほうで、連れの少年は気の乗らない口調で呟いた。
「また、墓を荒らしに行くんだね」
「ん? 何だ、どうした。」
「死者から奪うのは良くない…。それに、もしバレたらただじゃ済まない」
「何を今さら言ってやがる。この谷で、他にどうやって食ってくってんだ、えっ?」
男は急に不機嫌になり、目をぎらつかせながら大股に近づくと、固めた拳で乱暴に細身の少年の胸元を突いた。
「いいかシセネ。お前の親父は誰だ。捨て子のお前を育ててやったのは、この俺だぞ。手間のかかる赤ん坊なんて捨てておいても良かったのに、そうしなかったことに感謝しろ。お前には恩を返す義務があるんだ。判ってるんだろうな?」
「…判ってるよ、イリ」
「ならいいがな。ここじゃ、稼ぎの無い奴に食わす飯はないんだからな」
ふんと鼻を鳴らして、男は大股に去ってゆく。ひとつ溜息をついてシセネは、視線を谷とは逆の東のほう、川の対岸へと振り向けた。
川向こうにあるのは、この辺りで一番大きな町、州都「二羽のハヤブサの街」だった。
大きな町の白い壁の建物と大きな神殿の入り口の列柱とは、ここからでもはっきり見える。川の東側は、こちら側とは全く違う色合いで、全てが輝いて見えた。
微かな憧れを抱かないでもない――だが、法に触れる行為を生業とするような者にとって、官吏の集うそこへ足を踏み入れるということ自体が致命的だ。シセネにとって川向こうは、決して手の届かない別世界のようなものだった。
ふいに手元に暖かいものが触れて、ぼんやりしていた少年は吃驚して手元を見下ろした。いつの間にやって来たのか、全身真っ黒な犬が一匹、親しげに彼に身を寄せ、身体の脇に垂らしていた手の甲を舐めている。
「なんだ、"クロ助"か」
シセネはほっとして表情を緩めると、しゃがみこんで犬の首を抱き寄せた。
彼がクロ助と呼ぶその犬は、誰が飼っているわけでもない、谷に住む多くの野犬たちのうちの一頭だった。群れには入らずいつも一頭だけで彷徨っていて、どういうわけかこうして、シセネが一人でいる時に限って何処からともなく現れる。特に彼に懐いているというわけでもない。気が向けばやって来て、いつの間にか去って行く。けれど同じ年頃の仲間もいないシセネにとっては、唯一、その犬だけが友達のようなものだった。群れに馴染めない者同士、といったところか。
乾いた風が通り過ぎていく。先へ行ったイリは今頃、集落に帰って、いつもの連中にエモノが谷へ入ったことを告げているころだろう。
そこは、いかがわしい仕事に手を染める、土地を持たない流れ者たちの住む村だった。谷にへばりつくようにして作られた、粗末な家の立ち並ぶだけの場所。税が払えずに逃げて来たとか、他州でお尋ね者になって州境を越えてきたとか、そんなどうしようもなく、何処へも行けない連中ばかりが暮らしている。まっとうな仕事には就けないから、墓荒らしと盗品の転売、時には旅人を襲ったり、河辺の村から家畜を盗んで来たりもする。流れ者がやって来ては、いつの間にか居なくなり、人が増えてはまた減る。それを誰も真剣に気に留めない。何処で野たれ死んだか、運悪く役人にとっ掴まって牢に放り込まれたか、別の州へ流れて行ったかと噂しあうくらいだ。
そんな場所で、シセネは育った。
生まれて間もない赤ん坊の頃に、河辺に捨てられていたのだという。
子供好きとは思えないイリが拾って育ててくれたのは、ただの気まぐれか、将来自分の手伝いをさせるためだつたのだろう。
イリの主な稼ぎは墓荒らしやスリ、空き巣だった。逃げ足だけは速いが、腕っ節が強いわけでもなく、より安全に"一山当てる"ことのほうを好む男だった。シセネも、物心ついた頃からイリを手伝わされ、"仕事"の時の見張りをしたり、盗品の運搬をしたりしていた。
だが、何度やっても、この仕事には慣れそうにない。ここでは誰もがやっていることだと知っていて、それが生きていくための唯一の手段だと分かっていても――特に、墓泥棒の時、黴臭い暗い穴の前に立って周囲の気配に意識を凝らしているときなど、いつも心臓がどきどき言い始め、胸が苦しくなってしまうのだ。
誰かが視ている。
この世のものではない視線だとシセネは思っていた。きっと死者の視線なのだと。イリは気のせいだと笑い飛ばすが、シセネにはどうしても耐えられそうに無かった。
「こんなことをしていたら、いつか…おれもイリも破滅だ」
尾を振りながら黒い瞳で見上げる犬の首に手を回したまま、彼は、人にするように話しかける。
「どうしたら…こんな暮らしをやめられるんだろう」
墓泥棒は、重罪だ。街で民衆の前に引きずり出され、見せしめとしてムチ打ち千回の上で、縛り首。死体は荒野に投げ捨てられ、野犬やハゲワシの荒らすがままになる。
谷の墓は、定期的に見回りがある。荒らされていればすぐに知られる。それに、盗んだ品をどこかの町で食べ物や衣類と交換すれば、いずれ足がつく。
「掴まったら、殺されるんだ…そんなの嫌だ…」
首をかしげ、犬は、ぺろりとシセネの顔をひと舐めした。まるで、こちらの言っていることが判ると言わんばかりに。そして、するりと少年の手の下に首を潜らせて、来た時と同じように軽い足取りで去ってゆく。
ひとつ溜息をついて、シセネは腰を上げた。そろそろ戻らなければならないのは確かだ。一人で長時間うろついていると、後でイリにこっぴどく怒鳴られる。
悩んだところで、そうするしか食べていく方法は無いのだ。
ここを出ていく勇気も、他に仕事を探せる自信もない。
そして多分、今夜か明日の夜には、いつもの、気の進まない仕事に出かけることになるだろう。
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