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第一部/4 館に住む人々
それからというもの、シセネは、屋敷の中で様々な仕事をして過ごした。
仕事を言いつけるのはほとんどが、料理番のキヤだった。掃除やかまどの焚きつけ、皿洗いや洗濯。楽な仕事ばかりではなかったが、墓荒らしよりはずっとましだ。時々は、サプタハに連れられて街にも出た。けれど、屋敷の外に出るのは気が進まなかった。何よりそこは自分などのいるべき世界ではないという意識が消えなかった。
それに、イリの仲間か誰か、彼を知っている者とすれ違わないとも限らない――もしそうでないとしても、あの夜、もしかしたら谷の見回りに顔を見られているかもしれない。
過去は消せない。
首に提げた袋の中には、墓泥棒の証である金の聖甲虫のお守りが入ったままになっている。何度か捨ててしまおうかとも思ったが、シセネが護符を持っていることを、サプタハは知っている。無くしたと言ったら、きっと怪しむだろう。
いつしか首から提げた小さな袋は、彼にとって、とても重たいものになりつつあった。
そんなある日のことだ。
「シセネ」
「あ、はい」
台所の床を掃除していたシセネは、キヤに呼ばれて顔を上げた。
「今週の分のパンを取りに行っておくれ」
「え、…おれ一人で、ですか」
「そうだよ。他に誰がいるってんだい」
さも当たり前のように言いながら、キヤは、籠を差し出した。
「それから港へ行って、新鮮な魚を仕入れてくるんだ。道はサプタハが教えたから知ってるはずだね?」
「……。」
シセネが籠を受け取ると、キヤは、さっさと竈のところへいって、桶の前に腰を下ろしてしまった。夕餉の支度を始めるのだ。
少年は手元に視線を落とし、それから、勝手口のほうを見た。ここへ来てから、まだ一度も、ひとりで街に出たことは無かった。
だが、行かねばならない。
意を決して、彼は恐る恐る、勝手口から裏通りへと足を踏み入れた。
大通りの雑踏が響いて来る。毎週パンを受け取りに行っているパン屋は、通りのすぐそこだ。
パンを「受け取る」、という仕事については、この街に来てから教えられたことだった。
この屋敷には、パン焼き用の竈はない。粉ひきには手間がかかるし、体力もいる。そのために若いお手伝いを雇うのが手間なのだ。だから代わりに、パン屋に予め一月ぶんの小麦粉を渡しておいて、毎週一度か二度、一定個数の焼きたてのパンを受け取りに行く。
パン屋の前に立つと、焼きたての小麦の良い香りがふわりと漂ってくる。店の裏手の窯からは、ひっきりなしに煙が立ち上り、工房の職人たちが流れるような動きで次々とパンを焼き上げては並べている。
「あの、すいません」
籠を両手で抱えながら、シセネは、おずおずと番台の向こうに声をかけた。
「イシスネフェルト奥様のお屋敷から来ました。今週のぶんのパンを下さい」
奥で粉をこねていた恰幅のよいおかみが、白い粉まみれの手で汗をぬぐいながら出てくる。
「おや。あんた最近入ったっていう召使いかね」
「はい…」
「今週のパンね。ちょっとお待ちよ。…ほら、一人で持てるかね」
硬く焼きしめたパンの大きな塊が、どっさりと籠に積み上げられる。シセネは、よろめきながらも頷いた。
「大丈夫、です」
「そうかい。じゃあ、気をつけてね」
重たくなった籠を両手で抱えながら、シセネは、次に港へ向かった。屋敷は川の直ぐ近くにあり、川べりの港前は、近くの村落から集まってきた人々の即席市のようになっている。地元の猟師たちがその日にとった魚をそこで売りさばいていることは、以前サプタハに教わって知っていた。パン籠を抱えたまま、シセネは、魚売りを探した。
しばらくうろついていると、やがて、目当ての売り手が見つかった。きらきらウロコの光る魚を船べりのござの上に広げている。
「すいません。その魚をパンと交換してもらえますか」
「ん… 何匹だ。」
「二匹でいいです」
魚は、奥様の食卓にのぼるのだ。使用人たちのぶんまでは必要ない。
「これでどうだ?」
「そっちの、大きいののほうがいいです。」
交渉は見よう見まねだった。サプタハからは、値切ることよりも質を見極めろと言われていた。奥様はお金持ちなのだ。無駄遣いすることはないが、不必要にケチることは、街の評判が悪くなるからと許してもらえない。
言いつけられたお使いを終え、両手にパン籠を抱え、ヤシの葉の筋を口に通した魚をぶら下げて屋敷に戻ってくると、キヤは、ちょうど竈に火を起こしているところだった。
「ただいま、これ」
「おや。ちゃんと行ってこられたようだね」
魚を受け取った時、キヤは一瞬だけ、珍しく目元をほころばせた。
「街はどうだったかね」
「どうって…。」
「感想はないのかない、何か」
「……。」
何か答えようと思ったが、何も浮かんでこなかった。周囲に気を配る余裕など、殆ど無かった。シセネが黙っていると、キヤは、困ったような顔になって竈のほうに視線を戻した。
「ご苦労だったね。今日はもういいよ、あとは夕飯まで好きにしてるといい」
「はい」
いつもなら夕餉の支度を手伝えといわれるはずだったが、今日は珍しく何もないようだった。
用事がなくなると、とたんに暇になる。
シセネは、台所を出て中庭のほうに歩いていった。
屋敷は広かったが、どこもかしこも高級そうな家具や敷物があるせいで、落ち着ける場所はほとんどなかった。館の女主人は二階の自室から滅多に降りてこないし、来客もほとんどない。館の中は、奇妙に閉ざされた世界だった。街の雑踏とは裏腹に、一日は淡々と、ただ静かに過ぎていく。
これがこの街での普通のことなのかどうか、シセネには良く分からなかった。
見るともなしに視線をやっていた庭の茂みがふいに動いて、少年はふと、足を止めた。
のそりと細い体を起こしたのは、庭師の老人だった。確か、名前はシェバといったはずだ。日焼けして真っ黒な顔には深い皺が刻まれ、口元は白い髭に覆われている。シェバは、見つめている視線に気が着いて、シセネのほうに顔を向けた。
「あの、…こんにちは」
皺と髭に埋没した老人の表情は、よく分からない。ただ、多分微笑んだのだろうとシセネは思った。何も言わずに手元に視線を戻した老人は、指で土をほじり、丹念に草をむしり続ける。じっと眺めていても、気にした様子もない。落ち窪んだ目は、珍しい色をしていた。
この老人が声を発するところは、一度も見たことが無かった。むしろ、庭で仕事をしているところ以外を見たことが無い、といったほうが正しいだろうか。庭の草木に愛情を注ぎ、熱心に世話していることだけは確かだった。そのお陰か、庭の草木はどれも生き生きとして、まるで楽園のようだ。川べりに咲いている野の花もあれば、見たことも無いような花もある。それに、池の中の青い睡蓮。だが、数日前には確かに咲いていたはずの青い花は、今はもう咲いていない。シセネは、池に近づいて水の中を覗き込んだ。
「その花は、午後になると閉じてしまうの」
振り返ると、庭師と夫婦だと聞いた老婆が、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
「明日の朝になればまた開きますよ。お花が気になるの?」
こちらは確か、アハトという名前だったはずだ。庭番の老人と夫婦。普段は、館の女主人の身の回りの世話をしている。――サプタハに聞いたことを思い出しながら、シセネは小さく頷いた。
「見たこと無い花ばっかりだから。」
「奥様は、花がお好きなの。あの青い睡蓮も嫁がれた時にお持ちになったものでね。ここのお花のほとんどは奥様が集められたもので、よその国から持ち込まれた珍しいものもあるんですよ。」
微笑んで、老婆は少し悲しそうな顔をした。
「根付いたものもあれば、…根付かなかったものもあるけれど。」
「……?」
「ああ、そうだ。お布団は薄すぎない。夜は寒くないかしら? 私のところに掛け布が一枚余っているから、あとで取りにいらっしゃい」
ふいに話題を変えられたので、シセネは、疑問を口にする機会を失ってしまった。
アハトについて歩きながら、ふと視線を感じて振り返る。
二階の窓に、ちらりと白い衣の裾が見えた。館の女主人が庭を見下ろしていたのだ。何故かシセネには、イシスネフェルトが、見ていたことを気づかれたくないとでもいうように素早く窓枠の陰に隠れたように思えた。
でも、どうしてそんなことをする必要があるのだろう。ここは彼女の館であり、女主人の望むことは、何であれ、すべて実行されるべき場所のはずなのに。
アハトに渡された掛け布を寝台に広げ終わると、シセネは、自分に与えられた部屋を見回した。
使用人用の部屋は広くは無く、低い寝台に硬いまくらと網かごの物入れひとつがあるきりだったが、今までの暮らしからすれば十分すぎた。自分専用の部屋など持ったのは初めてだった。おまけに、ここは屋根も壁もどこにも穴が空いていない。
小さな窓から日差しが斜めに差し込んでいる。
薄暗がりの寝台の端に腰を下ろしながら、彼は、さっき一瞬だけ二階に見えたイシスネフェルトの腕を思い出していた。
初めて会ったときから今までに、話をしたことは殆ど無い。だが、彼女が拾ってくれなければ、彼は今、ここにはいないのだ。人嫌いだという"奥様"が、どうして、どこの誰とも知れない自分など拾い上げたのかは分からなかった。それに、もっと分からないのは、彼女がいつも憂鬱そうな顔をしていることだった。
立派な家があり、綺麗な服を着て、重たい腕輪を幾つも嵌めて、働かずに暮らしていられる。――食べ物に困ることもなく、いつだって腹いっぱいに好きなものを食べることが出来る。シセネからすれば、"奥様"は、川向こうの谷の村の人々が望んでも得られないものを全て持っているように見えた。これ以上、何を望むというのだろう?
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