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石尾の手にはデパートで買った菓子袋がある。万人受けする煎餅を買ってきた。小袋にいくつかのあられが入っていて、試食もして買った。そうだ、気合が入っていた、買った時までは。
「ただいまー」
「あら、凛子?」
奥から聞こえたのはお義母さんの声だ。
(いや、『お義母さん』はまだ早いだろう!)
一応そんな突っ込みを自分にしてみる。なんとか冷静さを保ちたい。たいがいがこれで失敗すると聞いた。関係を認めてもらわない内に『お父さん』『お母さん』と呼ぶのはタブーだ。広岡さんもそう言っていた。
声が引っくり返らないように気をつけて、腹に力を入れた。
「お邪魔します!」
(言えた!)
「お客さま?」
お母さんが出て来た。その頃には凛子ちゃんが「どうぞ」とスリッパを出してくれている。玄関に上がる前にお母さんにきちっと頭を下げた。
「石尾と申します。お邪魔します!」
再度言うと、その勢いに圧されたかのように「いらっしゃい、どうぞお上がりください」と言われた。スリッパを履く。
「失礼します」
ここまでは順調だ。
スーツ姿の石尾に怪訝な顔をしたままのお母さんが居間に案内してくれた。座布団を出されて、(そうは行くか!)とうっかり騙されないぞという思いで座布団を脇に置いた。その辺りも何気なく聞いていた広岡さんの体験談だ。
『とにかく礼儀、マナーは大切だよね。でも正座をし続けると大失敗するけどね』
「お茶、入れて来るわね」
「お父さんは?」
「ビールを買いに行ってるの」
「じゃすぐに帰ってくるね」
これからが本番だ。
お母さんが台所に引っ込んで、凛子ちゃんは石尾に囁いた。
「ね、そんなに緊張しなくていいんだよ。座布団して」
「いや、まだ」
凛子ちゃんは今日の石尾を頼もしく思った。『男性』というものをひしと感じる。
(健ちゃんってやっぱりきちんとしてる人だ)
お母さんが「どうぞ」とお茶を置いてくれたのと、「帰ったぞ」とどっしりした声が玄関から聞こえたのはほぼ同時。
「お帰り」
「お帰りなさーい」
二人の明るい声がして、お父さんの足が速くなった。
「凛子が来てるのか!?」
(この声…… 『俺の娘を!』と言うタイプだ)
いろんなドラマでそういう声を聞いてきた。
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