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第五話 杏と光
あの後、虐められ慣れていた僕は少しして立ち直り、大急ぎで掃除を済ませてゴミ箱から学ランを救出した。ゴミ屑やら食べかすやらがついてすごく汚かったけど、破れたりはしていないからちゃんと洗えばまた綺麗に使えるだろう。
ズボンも汚れていたので次の授業の先生には泥で汚れてと誤魔化して体操服で授業を受ける許可をもらった。なんとか夜のうちに洗濯しなければならない。
昔の、戒と仲が良かったときの僕だったら、あんなことされたら絶対泣き止むことは出来なかっただろう。あそこまで酷くされないうちに戒が駆けつけてくれていたというのもある。けど、社会に疎まれる歴12年。いじめられっ子歴は5年ほど。慣れと諦めというのは恐ろしい。内気な泣き虫を1人で立ち直るくらいには強くしてしまう。
なんとか家に帰り着いた僕は、家に人がいないか気配を探る。
僕の家は静かな住宅街の端にある。
玄関は鍵が空いていたので、どうやら姉さんが帰ってきているようだった。大学生の姉さんはスポーツをやっていて普段は結構遅くなることが多いけど、今日は早く上がれたらしい。
僕は忍足で家に入った。
実は今日のお弁当は、姉の杏が作ってくれたものだった。父さんと母さんは仕事で朝から晩まで働き詰めなので、家のことはほとんど姉さんがやってくれている。制服の寸法や教科書も、姉さんが一緒に買ってくれた。
だから、蹴られて割れた悲惨なお弁当箱も汚れた学ランも見せたくなかった。
明るくていつも元気いっぱいな杏は、家族で一番僕に優しかった。母さんがほとんど家にいないから、姉さんとの思い出の方が多い。戒と兄の光は今ではまともに話もできないけど、昔と変わらず優しいのは姉さんだけだった。
だから学校で起きたことや他のことでも、出来るだけ姉さんに心配をかけたくなかった。いつも応援してくれる姉さんに、みっともないところを見られたくない。
そうやって忍足で裏に行ってバケツに水を貯めて学ランを洗っていると、集中していたせいで後ろに姉さんが来ていることに気がつかなかった。
「えいっ!」
「わ!」
しゃがんで洗っていたところを後ろから背中にもたれられてバランスを崩す。
「ね、姉さん!いつから気付いてたの?」
「ふふ、あんたが洗面所からバケツを持ち出した時から。」
姉さんはスポーツをやっているせいか、気配に敏くて細かいことにもよく気がつく。
「学ランなんて洗ってどうしたの?また悪ガキどもにやられた?」
「いや、これは僕が勝手に転んじゃって。それで汚れちゃったんだ。」
姉さんは僕の言葉に少し考えたが、肯いて明るくいった。
「もう、啓はちっさな時から鈍臭いんだから。啓も何かスポーツしない?楽しいし、運動神経鍛えられるわよ。」
「僕、スポーツはいいかな…体動かすのって得意じゃないし、逆に青痣いっぱい作っちゃうかも。」
「あら、誰だって最初はそんなものよ。私はいろんなスポーツが好きだけど、初めから上手くできたスポーツなんて一つもないもの。始まりは皆同じ!成長は人それぞれよ!」
姉さんはいつもポジティブで、他者と違うことを広く受け入れた。後ろ向きで内気で辛気臭い僕とは正反対だ。少し突っ走ってしまうこともあるけど、そんな姉さんを見て僕はいつも元気をもらっていた。
「杏、そいつに優しくする必要ないぞ。」
そのとき、家の中から声がした。
長兄の光だ。いつもは仕事でもっと遅いはずなのにと疑問に思っていると、姉さんが教えてくれる。
「今日は兄さんも私と同じで早く上がりだったのよ。」
光はその様子を見ると顔をしかめた。
「ふん。お前さえ生まれなけりゃ、杏がお前のせいで悩むことも父さんと母さんが金に苦しむことも無かった。」
「光、やめて。」
年の離れた光は、父さんと母さんの負担を少しでも減らそうと中卒で働き始めた。ほとんど家におらず、工場の職場で寝泊りしていると聞いたことがある。
光は戒のように暴力こそ振るわないけど、学生の頃は僕の存在を見事にスルーして、ない者のように過ごしていたと思う。僕のことを弟とも思っていないのかもしれない。
「こいつは生まれちゃいけない奴だった。こいつにみんな、人生をめちゃくちゃにされたんだ。別に愛してやる必要ないじゃないか。」
「光!」
あまりの言いように姉さんは声をあげたけど、光はまたしばらく職場に泊まるための荷物らしい大きな鞄を持って出て行った。チラリと見た光は体は大きいが、前見た時より痩せている気がした。
「啓…あまり気にしないで?」
「うん。大丈夫。兄さんの言ってることは本当のことだから。」
そう言って洗濯を再開する僕を、姉さんはそっと抱きしめた。
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