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バラエティー番組の笑い声が小さく流れる病室の中で、眠る日南子をぼんやりと見つめながら沙耶は、なんとも形容しがたい居心地の悪さを感じていた。
日南子が乗る自転車と車が衝突し、彼女が病院に運ばれたと聞いたのは、三日前のことだった。日南子のおばさんから連絡を受けた沙耶が病院に駆けつけた時にはもう、日南子はおでこに巻いた包帯以外は事故の痕跡もないくらい、すやすやと眠っていた。
はじめこそ立ったり座ったりを繰り返しながらそわそわと見守っていた沙耶も、三日目を迎えて、少々手持ちぶさたに感じてきていた。
(こういう時、話しかけたりしたほうがいいんやろうか。手を握ったり。でも誰かに聞かれたら恥ずかしいし、当たり前やけど、ただのひとりごとやし)
だいたい、こういう時に特に語るべきエピソードなど、二人の間には無いとも沙耶は思う。
自分たちはただ毎日一緒にいただけで、何かを二人で成し遂げたり立ち向かったり、なんていう強い絆で結ばれているわけではないからだ。誰とでもすぐに打ち解ける日南子と違って、自分のことをモブにもなりきれないほど影の薄い、もうほとんど背景画の一部のような存在だと沙耶は思っているし、日南子のことを腹の底から笑わせたような記憶もない。
二人はもう物心がついた時には隣にいたし、クラスだって、小学一年生の時からずっと一緒だ。まわりの子どもにまったく馴染めない娘を心配して、母親が学校に頼んだのに違いないと沙耶は思っているけれど、そんなこととは知るよしもない日南子は、ついに八年間も、根気強く沙耶の隣に居続けてくれている。
「沙耶ちゃん、ごめんごめん! 留守番してもらって。これ、プリン買ってきたから、帰って食べて」
ジャッというカーテンの音とともに賑やかに帰ってきた日南子のおばさんは、ベッドの脇机にコンビニの袋からうどんとおにぎりを出し、残りを袋ごと、沙耶に差し出す。
とっさに受け取ってしまった沙耶は思ったよりも重たいそれに驚いて、あわてて袋を押し戻した。
「おばさん、こんなにたくさん、もらえません」
なにもしていないのに。沙耶はそう思ったが、おばさんは手を引っ込めて優しく笑って、「ううん、もらって。毎日来てくれるその気持ちが、ほんとうに嬉しいから」と言い、次には、
「ま、そんな遠慮されるほどのプリンでもないけどな」
と言ってアハハと笑った。
(結局日南子には、一言も話しかけてない)
小さくため息をつき、沙耶は病室をあとにした。
病院の重いガラス戸を押すとすぐに、もわんとした熱気がすべりこんでくる。一歩踏み出すと、まるで季節をまたいだかのようにジリジリと暑い。
(日南子、今日も晴れてる。それに蝉もうるさいわ)
日南子が眠る前と、なんにも変わってないよ。沙耶は自転車のスタンドをおもいっきり蹴り、熱風の中に走り出した。
玄関のドアを開けるとすぐに、母の依子がキッチンから顔を出す。
「おかえり沙耶、どうやった? 日南子ちゃん、相変わらずか?」
「うん」
喉だけで唸るような返事を返し冷蔵庫へ向かうと、今度はリビングにいた兄の陽希が珍しく沙耶に声をかけてくる。
「お、沙耶、おかえり」
おかえり、なんてずいぶん久しぶりに言われた気がする。年の離れた大学生の兄が、自分に興味を持つなんて珍しいことだ。
沙耶が無言で続きを待っていると、陽希は沙耶が小学生のころみたいに優しく笑った。
「沙耶、今日、地蔵盆へ連れてってやるから、お母さんに浴衣着せてもらい」
「はあ?」
沙耶は反射的に顔をしかめ、何の罠かと疑った。一昨日の朝、今日は彼女が来るから絶対に部屋から出てくんなよ、と言った口と同じ口から出てきた言葉とは、まったく思えない。
「沙耶、良かったなぁ。お兄ちゃん、沙耶が最近元気ないん違うかって、心配してたんやで」
そんなことがあるだろうか。最近もなにも、まともに話をした記憶さえも薄れてきているというのに。沙耶はおおいに疑わしい気持ちのまま、目を細めて陽希を見た。
「あらそしたら、そろそろ用意したほうがいいかな。浴衣の着付けなんていつぶりやろう。最近沙耶、全然着たがれへんから」
沙耶はまだこの状況をいぶかしむ気持ちを捨ててはいなかったが、依子が嬉しそうに準備を始めてしまったので、なんとなく口をつぐむ。
窓の外を見るとまだ明るく、水色の空に山吹色の雲が浮かんで、かろうじて夕方の片鱗をうかがわせる程度だ。
「いや、行くんやったら七時頃がいいわ」
こんなに明るい中に、浴衣を着て出ていく勇気など、沙耶にはない。
冷蔵庫に入れるつもりだったプリンの袋を沙耶が依子の手に握らせると、袋をのぞきこんだ依子は四つのプリンを見て嬉しそうに微笑み、いそいそと三人分のスプーンをテーブルに並べたりなんかしている。
(なんのつもりかは知らんけど、ま、いっか)
紺地に藤色の朝顔柄の浴衣を着せてもらった沙耶は、Tシャツに短パンという味気ない格好の陽希に連れられて家を出た。
もうほとんど赤に近い橙の空は、遠くの山や家や鳥なんかを、黒々と浮かびあがらせている。そこに薄墨をこぼしたような雲がかかり、その不思議な色合いが、沙耶をなんだか心もとないような、浮き立つような、落ち着かない気持ちにさせた。そしてまだ広場の見える前から聞こえる太鼓や歌い手の声が、それをよりいっそう増大させるようだった。
角を曲がると音は一気に大きくなり、無数の提灯に照らされた屋台や盆踊りの輪が、明々と浮かび上がっている。
(去年も日南子と来たな)
去年だけじゃなく、一昨年も、その前も。
それだけで、特別な思い出はない。だけど広場の入り口で足を止めた沙耶は、自分がなぜこんなところに来てしまったんだろうと後悔しはじめていた。しかも陽希なんかと。そしてそれはクラスメートの男女が何人かで来ているのを見つけてしまって、よりいっそう強くなるのだった。
「沙耶、お地蔵さんやで」
懲りもせずに未だににこやかな陽希が、沙耶の肩をたたいた。
「ああ、こんにちは」
子どものころからの癖で、お地蔵さんにはなんとなく挨拶をしてしまう沙耶だった。そして地域の大人たちの手で清められたお地蔵さんは穏やかな優しい笑顔をしていて、どうしてか手のひらに小さなビー玉を乗せている。
(いつもこんなの、持ってはったやろうか)
不思議に思って近づくと、透明のビー玉にはうしろの盆踊りの輪が映っている。それだけのことにさして興味もわかず、沙耶は踵を返そうとした。
その時、にわかに鳥肌が心臓のあたりから全身に走った。
本能がビー玉を見てはいけないと警鐘を鳴らしたけれど、沙耶はもう一度見てしまった。
その、顔にかけている布は、なに。
ビー玉に映る盆踊りの踊り手たちは、みな一様に顔から布がかかっていて、顔がわからない。
(兄ちゃん!)
陽希に向かって叫ぼうと沙耶が振り返ると、そこにはただただ茫洋とした橙色だけが広がっていて、陽希も、ほかの誰も、いなかった。
太鼓を打ち鳴らすような鼓動の音が耳元で鳴り、心臓が喉元にまでせり上がってきたかのように息が苦しい。
そして沙耶が恐る恐る首を向けた反対側には、盆踊りの輪があった。
エンヤコラセ ドッコイセ
河内音頭の歌声や太鼓や三味線の音やなんかが、うわんうわん、うおんうおんと耳元で唸るようにスローモーションで聞こえる。
沙耶の目の前を盆踊りの踊り手たちが緩慢に流れていき、みなその顔を白い布で隠している。
「嬢ちゃん」
突然すぐそばから声がかかり、見上げると中年の男が沙耶を見下ろして立っていた。いつの間にか腰を抜かして座り込でいた沙耶は一瞬息が止まったが、この異様な光景の中ではまだまともに見える男の姿を素早く観察し、自分を落ち着かせようとゆっくりと息を吐く。
「嬢ちゃん、今来たとこか? その布はな、絶対にめくったらアカンで。めくったら最後、彼らは消えてしまうんやから」
そう言いながらも男は、盆踊りの輪に目を戻し、そこから目を離さない。
「この人たちは、ここは、なんなんですか」
「ここか、ここはこの世とあの世の境目や。この踊り手たちはこの曲が終わったらあの世へ旅立って行くんやと。その前にな、この輪の中から探し人を見つけ出して輪の外へ引っ張ると、この世へ連れ戻せると言うよ」
「この世へ、連れ戻せる?」
沙耶は目の前をゆっくりと流れていく盆踊りの輪を茫然と眺めた。
この世とかあの世とか、それではこの盆踊りは、死んでから天国へ行く前の人たちが踊っているとでも言うのだろうか。なぜ自分がそんなところに。
沙耶のなかを信じられない気持ちが半分以上を占めていたが、けれどもこのとても現実とは思えない光景が、信じる気持ちを後押しするのだった。
(まさか、この中に、日南子もいる?)
そして、ふと思い浮かんだことに、沙耶はゾッとし、腹のなかが空っぽにでもなったような、うそ寒さを感じた。
「日南子、日南子? あんたがわたしを呼んだんか? 日南子、あんた天国へ、天国へ行こうとしてるんか」
沙耶は踊り手たちに駆け寄り、その一人一人に急いで目をやったが、彼女らは一様にぼんやりとしていて、誰がどんな容姿なのかも、よく分からない。
「こんなん、探すの無理やんか……」
そうしてまた沙耶は茫然と、するしかないのだった。するとうしろにいた男が隣に並び、
「ぼんやりとしてるやろ。そやけど、その人との大切な思い出を思い出すたび、どんどんとその姿が鮮明になっていくんやて」
と言った。
「思い出……」
どうしてこの人は、そんなに詳しいのだろうか。この人だってほんとうに人なのだろうか。この人のことも目の前の光景も、わたしは信じていいのだろうか。
沙耶には何もかもがわからない。すると男は沙耶の、その動揺を読んだかのように話を続ける。
「さっき出会ったお人がこのことを教えてくれたんや。それからその人は旦那さんを見つけ出し、ここを出ていった。そやから嬢ちゃんも、おっちゃんが先に出ていったあとに新しく来た人がいたら、このことを教えたってや」
「うん」
沙耶は素直に返事をした。何もかもわからない。わかっていることは、ここにもしかしたら日南子がいるかもしれない、ということだけなのだから。
「おっちゃんは誰を探してるの」
「おっちゃんか? おっちゃんは、娘や。事故に遭うてな、もう二年眠っとるんやて……というのも、恥ずかしい話やけど、おっちゃんは娘が六つの年に家を出てしもうたんや。もう十四年も会ってない。だから、思い出なんかほとんど無いんや」
「十四年……」
それならばその子はもう大人になっているはずだし、見つけるのは相当に難しいだろうと沙耶は思った。だけど、こうもひた向きに輪を見つめる男を見てしまえば、もう諦めたら、なんて言えるわけもない。
「なにか、ちょっとでも覚えてることないの?」
「うーん、そら、いくらかはあるよ。そやけど、娘の産まれた時のこと、はじめて歩いた時、パパと言った時、幼稚園の発表会での踊り……いろんなことを思い出した。でも全然、ダメなんや」
男の声は弱々しい。沙耶は言葉を失った。そんなに感動的な思い出がいくつもあるのに見つからないなんて。それならば特別な思い出のない自分など、絶対に探し出すことはできないんじゃないかと思うのだった。
しばらくは黙りこんだままで立ち尽くしていた二人だったが、ふいに男がぽつり、と静かに言った。
「娘にも浴衣を着せて、祭りへ連れていってやったことがあったわ。嬢ちゃんのように髪を結ってあげたいと家内が頑張ったけど、娘の髪はまっすぐでサラサラでな、何度頑張っても、うまく結えんかった」
話し出した男に目を向けると、沙耶の視線の先で、なにかがキラキラと光るのが見えた。
(あれは?)
あんな光など先ほどまでは無かった。しかしほんの密やかな光が確かにある。
沙耶はもしかして、と思い、男に話をうながした。
「おっちゃん、他は? 他にも娘さんの話、してみて」
沙耶が急いで言うと、男は不思議そうな顔をしたが、次には嬉しそうに話し出した。
「他か、そやなぁ……そういえば、娘とおっちゃんとは手の形がまったく一緒でな。指の短さも、爪の形もや。それで、習ってたピアノもちっとも上達せんのや。指が届かんで。ふふふ」
男は懐かしそうに笑い、沙耶の目線の先ではまた、キラキラと光る。
「他には?」
「他か。こんなたわいもない話やったら、いくらでもあるで。娘はグラタンが好きでな。いつもあつあつのチーズを、こう、ちっちゃな口をとがらせて、ふーふーと……」
「おっちゃん!」
沙耶は叫んだ。男は、急に大声を出した沙耶に驚いて目をまるくしたが、沙耶の視線が自分に向いていないことに気がついて、ゆっくりとその視線をたどった。
そこには、輪の中の踊り手の中で一人だけ輪郭がはっきりとして、白く光るような人がいる。踊るたびにまっすぐな黒髪が、サラサラと揺れた。
「彩……」
男は呆然と呟いた。そして、輪の中へ手をのばし、踊り手の手を強く引いた。
「彩!」
娘は輪から外れ、その顔にかかっていた白い布は、だんだんと薄くなって消えていった。
そして男は娘の手を引いたまま、輪の外へ向かって走り出す。もううしろは振り返らずに、掴んだ手を離すまいとするように娘の手を握りしめ、懸命に走った。
「嬢ちゃん、嬢ちゃん! ありがとう、ありがとう、ありがとう」
二人のうしろ姿は橙色に溶けていき、男の震えた涙声だけが響いて消えた。
「消えた。帰ったんや。この世へ」
(そうか、そうや。思い出はなにも、特別なものばかりじゃない。なんでもないような、あたりまえのことでいいんや。そうやんな? 日南子)
「そんな思い出なら、いくらでもある。わたしらはほとんど生まれてからずっと、一緒にいたんやから」
沙耶は緩慢に流れる踊り手の、一人一人にあらためて目をやった。
「二人とも自転車に乗りはじめたばっかりのとき、よろけたわたしをよけようとして、日南子だけが転んだことがあったな。あの時の膝の傷、今もうっすらと残ってるよな」
「笑ったら右の前歯だけがちょっと八重歯で、そこが可愛いよな」
「前に変なイラストのついたTシャツを着てて、わたしが何やそれって笑ったら、そのあと調子にのって、何回も着てきたよな」
沙耶の目には、じわじわと涙が盛り上がった。一つ口に出すたびに、白く浮かび上がったような少女の姿が、光の帯をうしろへ流しながらゆっくりと近づいてくる。
「日南子」
小さくつぶやいた沙耶は彼女の手を、そっと握った。すると彼女は踊りをやめ、沙耶の手に導かれて輪から外れた。盆踊りの輪は、なにごともなかったように相変わらず、緩慢に回っている。
そして日南子の顔からは、白い布が風にさらわれるかのようにふうわりと消えた。
あらわになったその顔は、病室で見たときのようにすやすやと眠っているようだ。
「日南子、帰ろう」
泣き笑いの顔になった沙耶は口を横一文字にひきしぼり、日南子の手を引き、橙色の中へ走り出した。
ふと目を開けると、真っ白でふかふかのものに、頬を包まれていた。ほんの少しのあいだ沙耶はぼんやりとしていたが、自分が布団の上に突っ伏しているのだと気がつくと、すぐに跳ね起きた。
そこは病室で、日南子のベッドの上だった。
「日南子」
さっきは確かにその足で、一緒に走っていたのに。沙耶の体中から力が抜けていくようだった。
落胆が沙耶をパイプ椅子の背もたれに倒れこませるところだったが、
「さ、や」
その密やかな声に、沙耶は腰を浮かせた。
「日南子!」
日南子の眉間にしわが寄り、まぶたが今にも開きそうに、ふるふると震えている。
「おばさん、おばさん!」
沙耶は日南子の体に覆い被さるようにして顔をのぞきこみ、大声を出した。
廊下にまで響いた声に驚いた日南子のおばさんが、あわてて病室に入ってくる。
「沙耶ちゃん、どうし……」
おばさんは、沙耶の異様な様子に言葉を止めた。するとその時、かすれたうめき声が日南子の口から漏れたのだ。
「うう、う、うるさい」
おばさんは目を見開き、手をわなわなと震わせたが、すぐに踵を返し、病室を飛び出して行った。
「か、看護師さん、日南子が、日南子が目を覚ましたんです!」
ナースステーションに向かって叫ぶおばさんのひっくり返った声が、日南子の顔を微笑ませた。
沙耶は日南子から目を離さないまま、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。ふと目に入った時計を見ると、五時を少し回ったところだった。
一体何が起こったというのだろう。おばさんに伴われた看護師や医師がやってきて病室が慌ただしい空気に包まれるのを、病室の隅っこに貼り付いて、沙耶は呆然と眺めるしかなかった。
けれども日南子が右の八重歯をちらりと見せて笑ったころ、やっと沙耶の気持ちも病室の空気も、落ち着きを取り戻してきていた。
「日南子、沙耶ちゃんな、あんたが事故に遭ってから毎日来て、ずうっとそばにいてくれたんやで」
おばさんは涙を溜めて、日南子を優しく見つめる。
沙耶は確かめるように、慎重に言葉を舌へのせた。
「おばさん、わたしさっき、地蔵盆へ行ったよな?」
するとおばさんは不思議そうに首をかしげ、
「ああ、そう言えば今日は、地蔵盆やったなぁ。沙耶ちゃん、もし行くんやったらそろそろ帰ったほうがいいな」
と言った。そして冷蔵庫からコンビニの袋を取り出すと沙耶の方へ差し出し、言ったのだ。
「これ、プリン買ってきたから、帰って食べて」
しかし沙耶はそれには手を伸ばさず、天井を仰いでたっぷり三秒ほど考えを巡らせてから、思った。
(ま、いっか)
今度は日南子が不思議そうな顔をする。
「沙耶、どうしたん?」
なんとも説明のしようがない沙耶は苦い笑みを浮かべ、ただ一つの真理だけを答えた。
「いや、よう考えたら、うちの兄ちゃんがあんなに感じいいなんてこと、あるわけなかったわ」
―おわり―
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