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午前十時。隆は喫茶店の扉を開けた。ドアベルを鳴らして中に入ると店内には街の喧噪を感じさせない穏やかな空気が流れていた。人はまばらで、ざっと見渡してみたところ美優の顔はまだ見られない。約束まであと一時間ある、当然といえば当然だった。
隆は「さすがに早いか」と頭を掻いた。生まれて初めてのデート、相手は職場の直属の部下、そういったことを鑑みて必要以上に余裕をもって待ち合わせ場所へとやって来た。しかしいくら遅刻をしては示しがつかないとはいえど、
いささか慎重過ぎたかもしれない。そんなに楽しみだったのかと思われたならそれこそ面目が立たなくなる。
とりあえず席に着きコーヒーを頼んだ。そして美優がやって来たときに「僕も今来たところだ」と忘れず言えるよう何度もつぶやき練習した。
午前十時五十分。約束まであと十分。いよいよ緊張し始めて二杯目のコーヒーを飲み干した。
待ち時間がたっぷりあるぶん余計にいらぬことを考えてしまう。美優は約束を忘れてはいないだろうか、道に迷ってはいないだろうか、あるいは寝坊してはいないだろうかと頭をよぎり、苦笑した。客先で名刺と間違えてクレカを出すような奴だからその可能性も否めない。
美優が仕事でミスする度に隆はキツく説教した。時に厳しく言い過ぎてしまう。それでもめげることない健気さに心惹かれるようになったのはいつの頃からだっただろう。
時間通りに来ることを見越し、隆は直前でカップアイスを注文した。美優が無類の甘党なのは知っている。やって来た直後に彼女が喜ぶ姿が目に浮かんだ。
午前十一時半。約束から三十分が経過した。三杯目のコーヒーが空になり、カップの中で丸いアイスが徐々に形を失っていく。しかし美優はまだ現れない。
隆はなおも待ち続けていた。「客先の打ち合わせには遅れるな」とは教えてあるが今回は仕事ではないし、それに美優も一応女性だから支度に時間がかかることもあるだろう、だから遅れることは問題ではない。ただ何の連絡も入れてこないのはいかがなものかと、隆の心中は穏やかでなかった。
正午になっても来なければ隆は電話をすることに決めた。催促するようで嫌だったが致し方ない。
そしてまたコーヒーを頼んだ。ささくれ立つ心を落ち着かせる必要があった。
正午過ぎ。店は徐々に賑わい始め様々なランチが各テーブルに運ばれていく。ぽつねんと座る隆の前には液体と化したカップアイスがあるばかり。ついに待ち人は来なかった。
電話はまだしていない。苛立つ頭に浮かんだ疑念、本当は美優はデートしたくなかったのではという考えが隆の指を止めていた。
思い返せば散々口やかましく叱ってきたのにデートしたいなどというのは虫の良い話だったのかもしれない。誘ったときに笑顔で応えてくれたの確かである、しかしその裏に激しい嫌悪が隠れていても無理からぬ。もしも美優が『忘れていた』という名目でやりすごそうとしているのなら……、そう考えれば電話をするのが怖かった。
ドアベルが鳴る。隆はパッと顔を上げる。入って来たのは知らない人で、再び目線をテーブルに戻す。もう何度こんなことを繰り返したのか分からない。
それでも隆は電話をすることにした。事故に巻き込まれている恐れもある。力なくスマホの画面に指を這わせた。
その時、けたたましくドアベルが鳴った。そして誰かが勢いよく隆の向かいに転がり込み「ごめんなさい」と謝罪した。美優だった。
「寝坊しました! 走ったけど、遅れました」
「じゃあ電話くらいしてくれよ」
「あっ、そっかぁ」
そう言って美優は舌を出した。
髪はボサボサ、汗はダクダク、反省しているようにも見えない。いつもなら怒号が飛び出すところ、しかしその時隆は怒るような気分でなかった。
「まあ、僕も今来たところだけどね」
穏やかな一言が零れ落ち、美優は「よかった」と言って笑った。
隆はトイレへと席をたった。戻ってきたら液状アイスは飲み干され、美優が次々とデザートを注文していた。結局隆は振り回されてばかりだった。
このじゃじゃ馬を乗りこなすにはもう少し時間がかかりそうだと隆は思った。
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