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「ただいまー」
インターホンを鳴らしても一向に玄関に移動する様子がなく、その少女は不審に思って扉に手をやり、鍵がかかっていなかったことに眉をしかめた。
「お母さん、お兄ちゃん、帰ったよー」
姿が見えない家族へと声をかけながら家に上がり、物音ひとつする様子の無い室内にいよいよこれはおかしいと、少女は最も近い居間へと扉を開きながら駆け込んだ。
「…………何してるの?」
死屍累々という言葉がふさわしいほどに、生気の無い顔でソファーに沈む家族の姿をとらえ、少女は困惑に言葉をもらした。
「んぁ………秋穂、おかえりぃ」
「お兄ちゃん、しっかりしてよ。ほら、お母さんも、シャキッと」
兄、裕樹の気のない返事に顔をしかめ、妹である秋穂は裕樹の頭をはたき、それから母の面前で手を振った。
「ちょっと、お母さん?おーい……お兄ちゃん、お母さん、どうしたの?」
「あー、秋穂、大事な話がある」
「大事な話?ひょっとして、お母さんが病気になったとか?それともお父さんが他に女の人作って出て行っちゃったとか?」
「いや、そうじゃない……てか、よくそんなどろどろした話を小学生が口にできるな」
「クラスの女の子が言ってたよ。昼ドラだー、って」
クラスメイトの少女の話を両手を目一杯駆使しながら説明する秋穂に、裕樹は毒気を抜かれた顔をした。そういえばのどが渇いたと、今更ながら来客にお茶の一杯も出さずにいたことに気付いた裕樹は、顔をくしゃっとゆがませながらもお茶の用意をした。
「ふぅ……秋穂、お父さんがね……」
紡がれた言葉は、けれど途中で音を失い、虚空へと溶けて行った。
(どう説明すればいい⁉まだ幼い秋穂に、お父さんが逮捕されたと、そう話してしまっていいのか?秋穂に事実を受け止めることができるのか?やっぱり、お父さんはしばらく家に帰ってこられないんだと、ぼかした説明をするべきか、いや、でも聡い秋穂が父の逮捕に気付く可能性もある。その場合、事実を隠した俺たちに対する不信感はどれほどのものか――)
「お父さんね、警察に捕まってしまったんだって」
頭をかける裕樹をよそに、今まで屍のように無言でソファーに倒れ込んでいた母が、小さく、ひどくかすれた声で秋穂に告げた。
ひゅう、という息を吸い込む音は誰のものであったか。
事実を告げてしまうのかと戦慄した裕樹のものか、はたまた予想しえなかった言葉に驚愕した秋穂のものか。
とにかく、子ども二人は顔を見合わせ、それからそろって母へと視線を移した。
最後にしっかりと見てから一日もたっていないはずの母は、記憶にある姿よりもずいぶんと老けて見えた。皮膚はハリを失い、顔のしわが増し、髪はつやが消え去り、その何も移していないような濁った瞳は、二人に屍を連想させた。
このままではだめだと直感的に思った裕樹は、ずいぶん骨ばって見える母の手のひらを両手で包み込むように握った。それから、震える冷たい手に意識をやりつつ、裕樹は顔だけ秋穂の方へと向けた。
「詳しいことは何も分からない。分かっている事実は、お父さんが同僚を毒殺した容疑で逮捕されたこと。それから、俺たちがカケイ法を受け入れたということだけだ」
「毒殺……あのお父さんがそんなことするわけがない」
「俺だってそう信じたい。でも、俺たちがどれだけ考えたところで事態は何も変わらない。だから今は考える時間が欲しかった。今後どうしていくか、父の逮捕ときちんと向き合うためだ、そう思って……いや、そう言われて、カケイ法を受け入れた」
「カケイ法……ああ、犯罪者と無関係の人になるっていう、あの?」
「そうだ。だから、もうあの人はお父さんじゃ……いや、なんでもない」
秋穂のひどくゆがんだ顔を見て、裕樹は口をつぐんだ。悲しそうな、怒っているような、全てを諦めたような、濁った瞳に見つめられ、裕樹は続ける言葉を見失った。
そうして幾何の静寂が流れ、それから涙を流しながら部屋から駆け出て行った秋穂の後ろ姿が消えるのを見届けて、裕樹はほぅと息を吐いた。
それが安堵から来るものなのか、諦観ゆえのものか、本人である裕樹にもわかることはなかった。
父という一人の存在を欠いた生活は、粛々と進んでいった。それは、時間が停滞したままだと表現してもいいかもしれない。
食事の際、ふと一つ空いた席を見つめ、普段と変わらないはずがやけに部屋に響くニュース番組の司会の声に耳を傾け、使われることのない歯ブラシを無感情に眺める。今まで生活してきた部屋がやけに広く感じては、一人の「消滅」を思い出していた。
そこには確かに日常がある。記者が押しかけることも、殺人鬼の家族だと表立って誹謗中傷を受けることもない、穏やかな日々。
けれど、歯車のかけた家庭は、もはや通常の生活など生み出しようがなかった。
「お兄ちゃん、そろそろ出ないと遅刻するよ?」
「ああ、もう出るよ。秋穂も気を付けて学校行けよ」
「うん、大丈夫」
表面上は何も変わらない秋穂と裕樹の会話。そして、そんな二人を透明な笑みを浮かべて見つめる母。
秋穂の「大丈夫」という言葉に小さく眉をひそめた裕樹は、表面上は爽やかな笑顔を浮かべて家を後にする。
「行ってきます」
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