加害者家族健全育成法

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「痛っ」  昼食の時間。給食の配膳係を終えて席に着いた秋穂は、小さく悲鳴を上げた。  立ち上がって痛む部分をさすり、手に感じた原因をつかむ。銀色のそれは、学校でよく見かける画びょうだった。  手にしたそれをしばらく眺めていた秋穂は、教室後方の掲示板に画びょうを指してから、目視で確認して改めて席についた。  六人グループで向かい合わせになっている机の反対側でなんとも言えない顔をしているクラスメイトを一切気に留めることなく、秋穂は着席する。席を立っていた最後の一人である秋穂が座ったのを合図に、クラス長のいただきますの号令がかかり、昼食が始まった。  いただきます、と小さくつぶやいた秋穂は、味のしない料理を無表情で食べ進めた。  数日前から、始まったいたずらは終わることなく、それでいてあからさまなものもなく淡々と続いていた。秋穂にとって不運だったのは、彼女の父の会社員の一人が秋穂のクラスメイトの父であり、そして彼が酒に酔ったさいにぽろっと娘に事件について漏らしてしまったことだった。  今まで佐竹という苗字だった犯人が別の苗字で逮捕されたと報道され、そしてクラスにいる佐竹という少女が暗い顔をしている。  幼い少女が、事件の犯人と佐竹秋穂という少女を結びつけるのはすぐだった。  瞬く間に事件についてのうわさがクラスに広まり、そしてこの状況が生み出された。  秋穂にだってある程度の知識はある。  カケイ法が適用された者に対する、犯人の家族というバッシングは罪に問われるということも理解している。  だが、聡いがゆえに秋穂はこの状態で行動を起こせなかった。  それは、「いじめ」が「犯人の家族だから」という理由で行われているか、という点ゆえである。  いじめとは、ある集団から気に入らない者を排除しようと行われる行動であるが、なぜいじめの被害者となってしまったのかという理由についてはひどく曖昧であったりする。  ただ気に食わないから。好きな人を取られて腹が立ったから。ある人がいじめていて、それに便乗しただけでとくに理由などもっていない、という場合もある。  秋穂の場合、事件のうわさがきっかけであるのは間違いないだろうが、仮にそうであっても、「いじめという行為そのものが犯罪者の家族であることの非難」とは断言できない。  新法という未完全さが、秋穂の行動を阻んでいた。  カチャカチャというカトラリーが器にぶつかる音が響く。クラスに会話はほとんどなく、あるのはたまに漏れ聞こえるクスクスという笑い声と、時折なされる小声での会話だけである。 「佐竹さんのお父さん、同じ会社の人をドクサツしたんだって」 「確か、次にコーヒーを飲む人にむさべつに毒をしかけたって聞いたよ」 「そうそう、確かヤキンってやつで、ドクで倒れた人を最初に見つけたのが柊ちゃんのお父さんなんだよねぇ」  普段おかわりをよそいに席を立つ生徒も、空気の重さを感じてか、はたまた自分がいじめの対象になりたくないという我が身可愛さからか、席を立つ者はいなかった。  秋穂のクラスは、かつてないほどの重苦しい空気に包まれていた。 「ただいまー」  精いっぱいの空元気を込めた秋穂の言葉が家の中に響くが、しかしそれに帰ってくる言葉はない。  あの日からほとんど喋らなくなった母は、最近ついにあいさつという行為をしなくなった。けれど、それを非難する気力も余裕も、裕樹と秋穂の二人にはなかった。  荷物を置いて居間へと向かう。少しの躊躇の後、開け放った扉の先の居間には誰の姿もなく、秋穂は自然と息を吐き、肩の力を抜いた。  母と顔を合わせるのをおっくうに感じ始めていることに、秋穂は強く自分に対して不快感を抱いていた。同時に、それは父を切り捨てた母と兄に対する軽蔑から目をそらす意味合いもあった。  優しい兄と母と父。それが幻想ではないと、秋穂は必死に自分の心に言い聞かせていた。  ピンポーン。  まどろみの中にあった意識が覚醒し、秋穂はのそりと体を起こした。 「んぅ?」  目をこすりながら眺めた液晶では、ニパッと輝かんばかりの笑みを浮かべた夏海が手を振っていた。 「夏海ちゃん、いらっしゃい」  目いっぱいの笑顔を浮かべて夏海を招き入れる。ただいまーという夏海の言葉に、お帰りと返そうとして、けれども秋穂はその言葉を声に出すことはできなかった。  自分にはその言葉がなかったのに、なぜ夏海にはあるのか、という差異を嘆いたということは、もちろん、秋穂はそこでようやく思い至った。  それは、父が帰ってこない、という事実であった。  高校生になってからただいまと告げることが少なくなった兄の裕樹と違い、父の秋人は秋穂がお帰りと言えば、いつも眉尻を下げてお帰りと、そう笑いかけてくれた。 (あの笑顔がもう見られないんだ。お父さんに、お帰りと、言えないんだ。)  それは、秋穂の思い出を揺さぶった。  家族で旅行に行った時のこと。兄と風呂で暴れて父に怒られたこと。恥ずかしそうに縮こまる父をよそに、母から父との馴れ初めを聞いた時のこと。父に肩車をしてもらったこと。怖くて眠れなかった夜に、父に抱き着いて一緒に眠ったこと。  たくさんの記憶が脳裏を駆け巡り、ぽろり、と秋穂の瞳から温かな雫がこぼれ落ちた。 「あれ?」  何も映していないような兄と母の瞳、二人が屍のようにソファーに体重を預けている光景を目にしたあの日。自分が頑張らなければならないと秋穂は決意した。  どこかおかしくなってしまった家庭で、変わってしまった二人に過去の優しかった姿を重ね、自分が立て直すのだと空元気を振りまいていた秋穂。  だが、違った。秋穂自身もまた、どこか変わっていた。  それは苦痛を押し殺したことであり、兄や母に怒りを抱いていたことであり、そして、何より余裕のなさにあった。 「あ、あぁ」 「え、ちょっと、どうしたの⁉」  一度気づいてしまえば、もう涙は止まらなかった。押しとどめていた心が堰を切ったようにあふれ出し、秋穂は夏海の胸の中に飛び込み、泣き続けた。そして、夏海の慌てふためく様子に変わっていないなぁと安堵を覚えるとともに、秋穂の意識は闇に沈んでいった。
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