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「なるほど……はい。分かりました。今回は厳重注意と言うことで。ただし次は無いよう、その生徒への指導の方はよろしくお願いします」
ふう、と受話器を置いた裕樹は息を吐いた。柊という女子生徒がこれまで秋穂に行ってきたという話の内容は、はらわたが煮えくり返るものであったが、裕樹は感情を押し殺した声で事務的に告げるとさっさと電話を切ってソファーに倒れ込んだ。
これで秋穂については一時的な解決を迎えるとはいえ、初動の遅さから秋穂が経験することになってしまったことを反芻すると、裕樹は自分に対するやるせなさ胸がいっぱいになった。
(俺は、秋穂が苦しんでいた時、何をしていた。和人に打ち明けられたことで満足してはいなかったか⁉俺は、少しでも本気で、秋穂の身になって考えていたか⁉俺は……)
思考の渦に飲まれ、出てくる結論は、自分が不甲斐ないというものばかり。裕樹は腕で目元を隠し、ギリと歯を食いしばった。
そのタイミングでガチャと扉の開く音がして、足音が近づいてきたかと思うと、裕樹の目元に暗い影が落ちた。
「お兄ちゃん……ありがとう」
「ッ⁉」
聞こえてきた言葉に耳を疑い、がばっと体を起こした裕樹の視線の先には、満面の笑みをたたえる秋穂の姿があった。
「秋穂……悪かった」
「なんでお兄ちゃんが謝るの?」
「俺が、自分のことしか考えられないような、兄失格の奴だからだ。すこしでも秋穂の身になって考えようとすれば、今回のことは予想できたはずだったんだ。そうすれば秋穂がつらい思いをすることもなかったっ」
「ちがう、ちがうよ、お兄ちゃんっ。お兄ちゃんは、ただ余裕がなかっただけでしょ。お兄ちゃんは、自分のことしか考えないようなひどい人じゃない。それに、私の方が悪かったもん。お父さんが捕まったって聞いた日、私ね、お兄ちゃんとお母さんの姿見て思ったんだ。二人には頼れない。自分が何とかしなきゃって。だから頼らなかったの。過信、してたの。自分にならできるって、何とかなるって。でも、できなかった。できなかったのっ……う、うわあぁぁぁ」
涙声から嗚咽に変わり、崩れ落ちた秋穂を裕樹は両腕で包み込んだ。
「許してくれ、こんな不甲斐ない兄をっ。……すまなかったっ」
二人の魂からの叫びは、声を聞いて駆け付けた母がなだめるまで続いた。
「もうしばらくは頼むが、ひとまず礼を言わせてくれ。ありがとう、助かった」
数日後、休日の昼下がりという穏やかな時間の中、とある喫茶店で深々と頭を下げる裕樹の姿があった。
「いえ、お気になさらず。それに、秋穂ちゃんといるのは意外と楽しいですし、むしろ引き合わせてくれてありがとうとこちらがお礼を言いたいくらいです。さすがは裕樹さんの妹です」
「……ん?どういう意味だ?」
「よく言えば単純、ということですかね。お姉ちゃんの言っていた意味が分かった気がします。表裏の無い人との付き合いは気楽で、自分をさらけ出せてとても楽しいですね」
「そうか……単純って悪い意味に聞こえるが?」
「気のせいです。それで、お母さんについてはどうなりましたか」
初音の言葉に、裕樹は少し視線を上に移動させ、それからそうだなぁ、と声を漏らした。
「よくなってきている、と一言で言いたいんだが、どうにも違和感というか、俺自身の中に苛立ちめいた感情がある気がするんだ。それがどういうことなのか……」
「苛立ち、ですか……」
初音は目をつぶり、裕樹の言葉を反芻した。その様子を眺めながら、裕樹もまた、自分の理解できない感情を紐解こうと必死に思考を巡らせた。
「何かに対する苛立ちがあるわけですか……何に対してか、自分に対してというわけではなさそうですし、やはりお母さんにたいしてですか。ではなぜ……んー、裕樹さん、最近の生活はどうでしょうか?」
「どうって、普通って感じだぞ?今までと変わらず学校へ行って、家でのんびり生活してっていう感じで。まあ、まだ父さんのことについてはどう受け止めたらいいのか分からないけどな」
「ああ、では裕樹さんは、お母さんが今の生活を『日常』だと認識していることに腹を立てているのではないですか。言い換えれば、お父さんを完全に今までも、そしてこれからも存在しない者としていうお母さんの在り方に苛立っているということですかね」
初音の言葉に、裕樹はビクッと肩を震わせ、そして、こみあげる怒りを必死で押し殺した。この感情は、せっかく届いた「今」を壊しかねないものだ。けれど、未来を思えば、この感情と向き合わなければならない。そんな葛藤をしばらく続け、やがて裕樹は静かに目を開き、初音にうなずいて見せた。
「多分、その通りだと思う。ああ、そうだ。俺は、父さんを忘れて、何事もなかったかのように生活している母さんに怒りを抱いているんだ。でも、今は秋穂のためにも、この生活を保ってやりたい。だから、こんな感情は間違っているんだ」
「いえ、その結論は早計だと思います。今向かいあわなければ、裕樹さんはきっと全てを一人で抱え込んで壊れてしまうと思いますから。第一、私の友人である秋穂ちゃんは、そのようなことで折れてしまうような人ではありません。秋穂ちゃんは、きっと乗り越えますよ」
そうか、とつぶやきながら裕樹はぬるくなったカップへと手を運んだ。過分な甘さがあったはずのそれが、今の裕樹にとっては非常に苦く思えた。
「なあ、秋穂。母さんは、父さんについてどう考えていると思う?」
初音の言葉に従い、裕樹はさっそく秋穂へと母の考えを尋ねてみた。
「お母さんは、んー、ああ、そういえば何も考えてないような気がするね」
秋穂の言葉に、裕樹は同意と共に言いようのない不快感からギリと歯を食いしばった。
「父さんについて、秋穂はどう思う。そもそも殺人なんてしていないんじゃないか、とか、カケイ法の適用をやめて父さんとともに被害者家族に償っていくべきだ、とか」
「あー……私はね、お父さんは殺人なんてしてないと思うの。だから、カケイ法になんて関わらずに、お父さんのことを信じ続けるべきだと思うんだ。たとえ記者の人とかに家に押しかけられるようなことになってもね」
「俺は…………どうなんだろう。どこかで父さんは無実だろうとは思っていた。でも、父さんについて全然知らない俺は、父さんが殺人をしたと言われても、完全に否定なんてできなかった。だから、よく分からない。カケイ法についてだって、現実を受け止めきれないまま、流されるまま頷いたに過ぎないんだよ。だから…………」
「お兄ちゃん、私はね、お兄ちゃんがカケイ法を受け入れるって決めたことは、正しかったと思うよ。お父さんが有罪か無罪かに関係なく、お父さんが帰ってくる家庭を守るためには、正しい選択だったよ。カケイ法を受け入れてなければ、私はきっと、今頃壊れていたと思うから、あんな些細ないじめでさえ、耐えるのはきつかったんだ。その上家に記者が押しかけて、ドアを乱暴にたたかれて、インターホンは鳴りやまなくて、近所の人からは殺人犯の娘だって正面切って言われて、学校でもいじめにあっていたら、間違いなく潰れてたよ。だから、お兄ちゃんの選択は間違ってないよ」
「けど、俺は父さんの無実を信じられないようなゆがんだ感性の持ち主だぞ。カケイ法をすんなり受け入れたのだって、父さんが人を殺したと警察が断定するのであれば正しいと心のどこかで考えていたからだぞ。俺は何より、そんな俺が、父さんを忘れ去って生活しているように見える母さんに苛立っているという事実が許せないんだ。今の俺は、父さんを忘れ去った母さんより、ずっと醜いんだよ!」
「そっか、お兄ちゃんは自分が許せないんだね。大丈夫。だったら私が許してあげる」
「ッ⁉な、なにを⁉」
その言葉と同時に、秋穂の手のひらが裕樹の頭に伸びてきて、それからその小さな手が、何度も髪をすくように行き来した。
「大丈夫、だよ。大丈夫、なんだよ」
「大丈夫」。その言葉を聞いて、裕樹はクシャリと顔をゆがませた。それは、父の逮捕を知って数日たった日の朝、未だ血の気が引いた青白い顔の秋穂が、無機質な笑みを浮かべて言った言葉だった。
けれど、今のその言葉は、秋穂の血肉が通っている。決して、自分を鼓舞しようとして空回りした無意味な言葉ではない。少しずつ気持ちの整理がつき始め、前を向けるようになった秋穂の、想いが宿った言葉だった。
秋穂の手の温かさを感じながら、裕樹は歯を食いしばって、自分の思いを母に告げる覚悟を固めて行った。
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