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「母さん、父さんについて教えてくれ」
西日が射しこむ部屋で、裕樹と秋穂、母が向かい合っていた。
「お父さん?そんな人はいないのよ」
「そんな言葉はいらないんだよ……佐竹秋人だ。佐竹裕香と結婚した男だ。なぁ母さん、それでいいのかよ。全部忘れ去って、それで、満足かよ」
「裕?どうしたの?そんな怖い顔して、せっかくの整った顔が台無しよ。それに秋ちゃんも、そんな泣きそうな顔しないの。まったく、二人とも今日はどうしたのよ?とっても怖いわよ?」
優しい笑みをたたえる母の瞳に、けれど何の感情もこもっていないことを、裕樹と秋穂は把握していた。けれど、これ以上かける言葉が見つけられそうになかった。
ほんの少しの間でずいぶんと老けこんで見える母の今の姿が痛々しく、裕樹は何度も出かかった言葉がのどの奥へと戻って行くのを感じていた。
「母さん――」
プルルルルルッ。
いくばくかの緊張をはらんでいた空気が、突如鳴り響いた電子音によって霧散した。
裕樹はポケットで鳴り響くスマホの液晶を確認し、立ち上がって壁際に向かい、通話ボタンを押した。
「もしもし、和人、どうし――」
「裕樹っ。すぐにテレビをつけろっ。二番だ。お前の父さんが釈放されたって。真犯人が自首したんだっ」
ガタン、と鳴ったのは、裕樹の手から滑り落ちたスマホの音か、それとも勢いよく立ち上がった秋穂が机に脚をぶつけた音か。
秋穂が近くにあったテレビリモコンを操作する間に、裕樹はスマホを拾い、通話相手へをせかした。
「釈放ってのは本当なのか⁉真犯人ってのは⁉父さんは帰ってくるのか⁉」
「ああ。お前の父さんは釈放だと。今ニュースで留置場から出てくる様子が繰り返しの映像で流れてる。真犯人についてはまだ分からないっ」
和人の言葉を耳にしながら、裕樹はテレビ画面を食いつくように見つめていた。そこには少しやせた、鮮明に脳裏に映る記憶通りの父の姿があった。
『加藤真一氏毒殺の疑いで逮捕されていた佐竹秋人容疑者が本日15時頃、真犯人が見つかることによって釈放されました。警察によりますと、真犯人である柊歳三容疑者は、良心の呵責に耐え切れなくなり、警察署で自首に踏み切ったとのことです。柊容疑者は全てを自白しているとのことです』
「母さん。父さんが釈放だって。この家に戻って来るんだ……っ」
横を向けば、初めて見る母の泣き顔があった。幾分かしわも増え、手入れ不足のせいか髪は千々に乱れてはいるものの、その瞳には光が宿り、唇をかみしめながら瞬い一つせずにテレビ画面を見続けていた。
「お兄ちゃんっ、お父さん帰って来るって。無実だって。お父さん、やっぱり優しいお父さんだった。お父さんだったの!」
だんだん支離滅裂になりつつも、抱き着きながらお父さん、お父さんと繰り返す秋穂の顔を眺め、じわじわと胸の内から温かいものがこみあげてきた。
「そうだな、父さんが、帰ってくるんだな。迎えがいるか?警察が送ってくれるのか?カケイ法はどうなるんだ?ちゃんと親子であれるんだよな⁉あ、ああ……」
佐竹家は、過去最大の混沌に包まれていた――が、
ピンポーン。
ビクッと三人全員の方が震え、恐る恐る液晶画面へと向き直る。喧騒が嫌に耳にこだまする。
固まって動かない足を必死に前へ動かし、何とか液晶傍へと近づき、その光景に呆然と息をのむ。それは、カケイ法によって回避できたはずの記者の群れであった。
『佐竹秋人氏の釈放について、一言コメントください』
『ネット上では、すぐさまカケイ法適用に踏み切ったことへの批判が相次いでいますが、そこのところはどのようにお考えでしょうか』
『真犯人とされる柊容疑者に対して、何か知っていることはありますか』
『警察の捜査ミスに対するメッセージをください』
玄関のその先から押し寄せる喧騒が鼓膜を打つ。押し寄せた大勢の人は何度もインターホンを鳴らすような悪質な行為は行わなかったが、それでも時折ドンッと玄関扉が叩かれる音が室内に響き渡り、そのたびに秋穂は身をすくめ、裕樹に一層強く抱き着き、その背中へと顔をうずめた。
裕樹は、インターホンの液晶画面が時間経過で暗くなるごとにボタンを押し、外の様子を光を失った瞳で眺め続けた。
母の裕香は、尻もちをつき、両手で肩を抱いて震えていた。
その時間は、たった数十秒のようにも、数時間にわたるもののようにも感じられた。
ふと、画面中を覆っていた人の山が、不自然な動きをし、裕樹はその変化をじっと眺め、それから、見知った顔を見つけた途端、画面を切り、秋穂と母を奮い立たせて玄関を飛び出した。
「……お帰りっ」
「おとうさ、ん……」
「……あなたっ」
モーゼの奇跡のように、集まっていた記者たちは通路の左右に分かれ、パシャパシャという数多ものシャッター音とともに、裕樹と秋穂の父、そして裕香の夫である佐竹秋人が姿を見せ、瞳を涙で潤ませながら駆け寄ってきて三人をまとめて抱きしめた。
もう感じることはないだろうと思っていたそのぬくもりと、なつかしい不思議な香りに、裕樹は心から湧き出てくる温かいものに誘われるように静かに涙を流した。
秋穂と母が父を呼ぶ声を聞きながら、裕樹は帰って来た日常に歓喜した。
「今のお気持ちをどうぞ」
「ぜひ、カメラに向かって一言」
カメラのシャッター音に混じって記者の声が響いたかと思うと、再び辺りは大喧騒に包まれた。
『カケイ法適用に踏み切ったのは尚早ではなかったでしょうか』
『秋人氏の無実を信じられなかったのでしょうか』
その中に含まれる辛辣な言葉にピクリと裕樹が肩を震わせたその時、
「少し待っていろ」
父は短く、されど今までのどんな言葉よりも重苦しい重圧をまとった声で告げ、くるりと三人の背後へ振り返った。
「今の私たちの思いなど一つしかない。歓喜だっ。愛する家族と、再び幸福な生活が送れることへの歓喜だ。そして、私は家族のことを誇りに思う。私の妻子らは、私の逮捕という逆境の中でも決して折れなかった。その活躍は、友人を通して私の耳にまで届いている。そして、あえて告げよう。私は、信じていたッ!愛する家族が、カケイ法を適用してくれることをッ!そうして、私が帰ってくる場所を、思い出あふれる温かな場所を、家族が守り抜いてくれることをッ!私は誇りに思うッ!愛する我が家族が、誰一人欠けることなく、誰一人心折られることなく、こうして一堂に会したことをッ」
その背中に裕樹は、ずいぶんと幼いころに感じ見たきりだった、父の背中を見た。
佐竹秋人は元来気弱な性格をしている。
ゆえに、記者らへ言いたいことを言ってのけると、三人の方へ振り返り、その背を押しながらそそくさと家の中へと入ることになった。これこそ俺たちの父さんだと、後に裕樹が語った際、秋人が羞恥に沈んでいたという。
綱渡りが続いた佐竹家は、父の帰還で持ち直した。
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