ラジオ体操始めました・・・とは多分言はない

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ラジオ体操始めました・・・とは多分言はない

 新型コロナウイルス感染症の蔓延して学校は早くから休校になり夏休みは短縮されたうえに感染予防のために三密を避ける今年の夏は恒例の早朝のラジオ体操も中止になったところも多いだろう。例年なら朝早くから子供たちの近くの公園などに集まりラジオ体操をやって参加した証のスタンプをもらっている頃だ。  ラジオ体操の中止になって残念に思っている子供や父兄もいれば当然に密かに喜んでいる人もいる。明らかに後者の方に入る身はこの前例のないであろうラジオ体操の中止は慶祝以外の何物でもないけれど多数派あるいは優勢な気持ちとしてはどっちなのだろうと少し気にかかる。というのも学校を卒業して数十年のサラリーマン生活を過ごして来た身の感じるところは中止を喜び歓迎している人は多分少数派だろうしよしやそうではないとしても有力な勢力ではないと思われるからだ。片やラジオ体操の中止を残念に思い状況の改善すればすぐに再開しようという人たちの積極的な意見は難なく多数派の優勢な意思として形成され密かに中止を喜びほくそえんでいる少数派は訳なく吸収されてしまうだろう。   わたしの学生時代やサラリーマンとして過ごした間のことを思い出してもラジオ体操の中止を小躍りして喜んでいる人たちは絶対に多数派にはならないであろうと思われる。  朝早くから人の集まる恒例行事であるラジオ体操はおよそ90年の歴史を持つことからも張り切って参加する人のおそらく多数派なのであろうしそういう場所や場面の好きな人の世間ではやはり優勢派になる。学校でも仕事でも朝早くに家を出てできるだけ遅くまで居残りその間にできるだけ多くの仲間と一緒に過ごすことに楽しさや意義を感じているかのような人たちの主流派を構成するのは理の当然である。  しかし世の中にはラジオ体操の中止を当然に支持し密かに喜んでいるような人も確実に存在する。仕事に就いてから朝の始業前にみんなでラジオ体操をしていた職場はいくつかあった。張り切って伸び伸びと大きく体を動かす人や人並みにみんなと一緒の動きをすることにひたすら専念している人たちの中に明らかに気乗りのしていなくて周りと距離を取り適当に手足を動かしているだけの人も必ずいた。わたしも子供の時からラジオ体操の輪からは逃避を繰り返して来て最初は嫌々とほんのわずかに手足を動かしていたけれどそのうち職場を抜け出して廊下で体操の終わるまでぼんやりと時間を潰していた。そしてそこには必ず同じ穴の狢のもう一人や二人はいたものだ。しかし職場の一体感から自ら逃避した後ろめたさやそんな自分の将来への拭えない不安からなのかそれともただ変わり者同士だからなのかよくわからいないけれどその人たち同士で話し込んだり共感を抱いたりしたことはあまりなかった。ラジオ体操の終わり職場に戻ればそこにはみんなで一緒にラジオ体操をすることの普通の多数派の安定した人たちとの間の目に見えない境の線の明瞭に感じられてはたして向こうからも判らないことはなかろうとつい斜に構えてしまう。  子供の時の夏休みの早朝のラジオ体操にも気乗りしないままであった。一応自主的な活動なのでいくら嫌々と体操したり少しくらいその場を離れて勝手に遊んだり時間を潰したりしてもそれを一人でやる限りは放任されて参加した証明のスタンプは押してもらえた。しかし運動会の前には学校で生徒全員運動場に並ばされて先生か将来はどこに行っても必ずそこで立派なリーダーになることの約束された生徒の台の上に立ちみんな元気良く手足や頭まで動きを揃えて体操しなければならない。そして必ず何回目かに何人か少数の生徒の名前の呼ばれてみんなの前で体操の矯正をさせられそして笑われるのだ。わたしもいつもその中の一人だった。みんなの前に出て体操をすればもとよりやる気ゼロでまともな体の動きなど身についていない上に恥ずかしさと見られている緊張から猶更ぎこちない動きになりついには体操の前後のただ立っているだけの時でさえ首のまがっていると体育の教師に叱りつけられる。そしてそのうち先生は矯正をあきらめ一番目立たないもしくは目立っても全体の調和の美に一番影響を与えない端に近い列の中間部辺りに少数派を点々と配置するのである。それでこちらとしてはゆめゆめ気づけかれぬように密かにやっと解放された安堵に一息つくのである。  これまでかつて一度も自主的にラジオ体操をしたこはなかった。やろうと思ったことさえない。そして今はもうラジオ体操に誘われたり強制的に参加させられることもない。それなのに毎週水曜日の朝の定刻に「さあラジオ体操を始めましょう!」と町の設置した防災ラジオから「毎日少しでも体を動かすことは健康維持に欠かせません。」とラジオ体操のあの一番の音楽の家の中に流されるのである。その放送の聞こえてくる度に未だにラジオ体操に素直になれず斜に構えている頑なな少数派としての存在であることを意識する。あの職場でラジオ体操の間に廊下に出ていたあの人。学校でみんなの前で体操の矯正をさせられ笑われた友達。今頃はどこでどうしているだろう。死んだという話は聞かないから今でもまだ自分と同じように普通に処世しながらもいつもほんの些細なことでつまらないこだわりにつまずいていることだろう。傍からすれば理解不能の意味不明の抵抗。その抵抗になんの意味もないことはさすがに歳月を経て弁えては来たけれどそれでもラジオ体操の音楽の聞こえてくると関わりにならないように背を向けて知らん顔をしてしまう。その必要も全くないのに。そして放送に素直に反応して家や職場で体操している人の姿を想像してみんなてんでばらばら思い思いの形で好き放題やっているその姿恰好を集めて並べてみればさぞかし面白いだろうと意地悪なことを考えたりする。それでいいのだろうか。ラジオ体操の指導をする人たちは勝手にアレンジした自己流の体操を許せるのだろうか。そもそもそれで健康に役立つのだろうか。おそらく週に一回放送の聞こえて来れば体操をしたりその時はしなくても体操をしないといけないなと素直に考える人の多数派で優勢であるだろうとは思いながらも未だになぜかそれに馴染めずに皮肉な悪趣味なことばかり次々に頭に浮かぶ。そこになんの意味も見出せなければ喜びも感じ取れはしないのに。  それでもこれからもラジオ体操始めましたとは多分言うことはないだろう。ただラジオ体操をすることは良いことなのかとかそこに自分の意見の通るのかなどのこだわりは気持ちの上でもすっかかり薄らいで来ている。いつかつまらないと自分でも思うようになったこだわりを逃れて勝手に家の中に流される放送に合わせてあるいは公園に出かけてラジオ体操をするようになるのだろうか。いやさすがにそれはないだろう。まだラジオ体操の少数派の自分の道の行方の定まってはいないのだから。
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