作者について

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 聖書に作者はいない。平家物語にも作者はいない。アーサー王伝説に作者はいない。オデッセイアの作者とされるホメロスも実在したのかどうかわからない。  少なくとも西洋においては長い間、画家や音楽家それに建築家も、貴族に雇われた職人でしかなかった。作者の名前が残ることがあっても、そこに作者の権利があるかどうかは別な話だった。  グーテンベルク以前の修道院では、手書きの写本によって本を増やすのが普通の方法だった。そのとき、以前の筆写者が書き込んだ注釈を、本文と区別せずに筆写するということが普通に行われていた。オリジナルという概念はなかった。  部族社会や農民たちの世界では、物語は共同体の共有物だった。それは世代から世代に受け継がれ、その間に内容が膨らんだりしぼんだり、移り変わったりした。ここにも、作者の概念やオリジナルという考え方はない。    本質的に、こうした感性というのは現代でも変わっていない。人気のある物語は、二次創作を経て再生産され、類似品が出版されることで増幅される。  それは物語が共同体の中で、一個の命をもって成長し根を伸ばし、枝を広げるのを見るようだ。【作者】とは、この巨大で長命な生物のそなえた小さな器官のひとつにすぎないのかもしれない。  しかし、より現実的に我々の社会を見れば、どの本にも作者と版権者の名前がはっきりと刻まれ、著作権は法に従って管理されている。作者が自分個人の名前で持って本を出し、それによって利益を得ているのなら、作者はその著作物に対して責任を持つべきだろう。「作者が悪いだけ、作品に罪はない」というわけにはいかないのではないか。例えば性犯罪を犯した作者に著作権料が振り込まれるのは、あまり語られないポイントだが、どうにも納得のいかないところだ(この件ソースなし)。  それでも本当に共同体が必要とする作品ならば、二次創作の形で、物語の原型は生き続けるだろう。無制限の複製がほとんど無制限に保存される時代である。出版社が頒布をやめても、本当に愛されているものならば、法の垣根を越えて求められ続けるだろう。  いずれにしても、現代の著作物の寿命は、著作権そのものよりもずっと短い。我々は簡単に忘れ、簡単に次の珍しいものにとびつく。 「作者の罪」は法で裁くことができる。「作品の罪」は歴史が決めるだろう。それでいいのではないだろうか。
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