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書くことと読むこととのギャップ
作品のテーマだの作者のメッセージだのを批評家が勝手に読み取って、その勝手な思い込みに基づいて作品をほめたりけなしたりするのは本当につまらない文化だが、読者は誰もが自分の読みなれた文脈にもとづいてその作品を理解するわけで、異なる世代や異なる文化に属する読者が、作者がまったっくおもいがけない仕方で作品を受け止めるというのは、仕方がないというか普遍的にあることなのだろう。
よく言われる話だが、「赤い」という一言でも人によってイメージする色は全く違う。それでも重大な事態が生じないのは、「赤」「青」「黄色」というイメージのネットワークが共有されていて、細部が違っていても記号の体系としては不都合が生じないようにできているからだ。
そう、確かに言葉は世の中の多くの場面で記号として働くわけだが、芸術作品においてはそれは象徴として働くことを期待して書かれているのであって、そのへんの機微が理解されていないと、すべての読書が平板で退屈なものになってしまう。
(記号というのはコトバとイミが一対一で固定的に対応しているものだが象徴は一つのコトバに様々なイミが込められているし、読者も多様な読解が許される。コトバとイミのつながりはそもそも固定できない)。
例えば上記の話は構造主義を知らない人にはなんだかよくわからないだろうし、そういうものが嫌いな人には、あ、こいつ哲学かぶれだ、で拒絶されて終わる。
考えれば考えるほど、話は通じないのがあたりまえ、という結論になるのだが、それでも、誰も彼もが簡単に共感できる話と言うのは書きたくないな、というのが個人的な思い。
何の努力も葛藤もなしに共有される相互理解と言うのはそれぞれが自己肯定感を分厚くするだけで何も生まない。
違う視点、違う世界観との衝突というのは、少なくとも驚きや困惑を伴うものだし、時に不快な感情を生み出すものだ。そういう出会いを自分なりにどうかみ砕き、どう受容するか。
あたりまえだが、「わからない」という感覚が先立たない理解は、何の理解でもない。
「わからない」を持っていることは、答えを知っていることよりも価値がある。
世の中には、不誠実で浅はかな文章が飛び交っていて、まじめに考える価値などめったにない、というのが現実かもしれないのだが、自分は自分の「わからない」を大切にしたいと思う。そして、自分の言葉も誠実に考え抜いたものとして受け取ってもらいたいものだと願う。
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