塩の話(特に結論はない)

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塩の話(特に結論はない)

 ロトの妻はソドムを振り返ったがために塩の柱になったという。昔からこの描写が不思議でならなかった。歴史上の錬金術においても、塩は重要なキーアイテムであったそうだ。  キリスト教圏における塩の象徴的意味合いというのはどんなものだろうか。そう思って「塩の博物誌」という翻訳本をアマゾンで探したら、「清めの塩(そういうタイトルの本ではなくガチの塩化ナトリウム)」がわらわらと候補に挙がってきた。  そうか、塩に象徴的な意味合いを持たせていたのは西洋だけではなかったか。むしろ日本では今でも特別な何かなのか。  ローマはカルタゴを滅ぼしたとき、その廃墟に塩を撒いて一帯を不毛の地に変えたという。その一方で「地の塩」などという言葉もある。  ドイツ人が毒と贈り物を同じ「ギフト」という言葉で表わすのは象徴的だが、呪的な力を持つものは常に両義的だ。薬と薬でないものを区別するのは副作用ーすなわち毒性の有無だという話も思い出される。  塩は浄化の力であって、ある者にとっては破滅を、またある者に対しては救いをもたらすものなのだ。    だが、そういうありきたりの解釈では、「人が塩の柱になる」という観念は理解できない。今ソドム山と呼ばれている場所には、ロトの妻の成れの果てと言われている石柱が残っているという。 「人間が石になる」これもまたよく考えるとわからないが、神話伝説では珍しくない。  たとえばギリシア神話の世界では、神は人間をあらゆるものに変化させる。  だから、たまたま塩の柱に変化しても、驚くことではないのだが、それでも疑問は残る。  旧約を語り伝えた人々、書き記した人々は、何故あえて「塩の柱」という表現を選んだのか。  何か、彼らにだけわかる象徴的なインパクトが、「塩の柱」というイメージにはあったのだと思う。  自分の無意識に問いかけてみても、伯方の塩のCMしか思い浮かばないのはザンネン極まりないが、今年追いかけてみたいテーマのひとつだ。        
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