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一回性のものと反復されるもの
意識は言葉によって構成されているが、無意識も記憶も身体感覚も、私全体を構成するものは決して言葉ではない。体験の記憶自体はイメージの集まりであるが、想起された瞬間に言葉になる。思考も感情もそうだ。そして一度言葉となって意識の内部に取り込まれたものを、言葉以前の状態にもどすことはできない。
書くことであれ、話すことであれ、最初の一言を紡ぎ出すとき、それは意識ではとらえられない言葉以前の何かである。そして、一たび言葉になったものは、もう言葉によってしか考えられなくなる。
言葉は論理的に構成しやすく、記憶にも便利だが、言葉を越えたものを排除する。
論理的に矛盾するものは我々の内部にごく当たり前に存在するが、言葉はそれを単なる矛盾としかとらえられない。
狗子に仏性はありやなきや。
犬は仏となる可能性をもっているか、という禅の公案の答えは、イエスとノー両方の正解がある。これは論理的には認めがたいことだが、意識をとらえている言葉の性質を乗り越えるためにこそ、禅の公案は存在する。
私や世界のありのままを、いちどきに把握する。
それが禅で見性成仏と呼ばれるものであり、文学的な文章もまた、同じものを目指しているのだと思う。
書くことは、周到に準備を行ったうえで演じられるインプロヴィゼーション( 即興)であるべきだと考えている。
言葉の論理、思考可能な枠組みをはずれない範囲で、無意識とのつながりを広く深く保ち、元型的なものをくみ上げ続ける。
私自身がまだ知らない私自身の本質に、そうすることによってはじめて手をのばすことができる。そうしてつかんだものにはきっと、普遍性がある。
すべての本質的なものは、言葉という機械装置にとらえられて陳腐化されてしまうが、だからこそ、私たちは繰り返し、何度でも書き続けるのだと思う。
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