地下鉄の遅延と遠くの戦争

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地下鉄の遅延と遠くの戦争

 札幌のような小さな街でも、年に一度か二度、人身事故で地下鉄が止まる。 東京では2021年、147件の人身事故があったそうだ。  それはほとんどの場合誰かが死んだことを意味しているわけだが、私たちは驚くほど死について語らない。私たちが口にするのは、予定に間に合わないこと、時間が無為に失われること、そのために迷惑していることであって、知らない人の死を悼んだりすれば、むしろ奇妙な目で見られるのではないか。  もちろん、三日に一度以上のペースで起きていることに対していちいち同情し、我がことのようにありありと想像していては身が持たない。自分の生活ができなくなる。無関心は自衛のための鎧だとも言えるが、これは、三日に一度以上のペースで誰かが自殺するような社会の異常さを否認することでもある。  暴力の主体が存在しない暴力、社会全体のしくみが人を死に追いやるようになっているために人が死ぬことは、構造的暴力と呼ばれる。これを言い出した社会学者は貧困などを念頭においていたようだが、豊かであるはずのこの国においても、人々は脅迫的なほどの圧力に日常的にさらされている。そんなものは感じたことがないという人は、よほど幸せな人だ。私は死にはしなかったが、一生治らない病気を抱えることになった。ヘラる(メンヘラの動詞形)と言う言葉がスラングになるほど、この圧力はあたりまえのものになっている。    いうまでもなく、無関心と無為と否認は問題を解決しない。  別に私はあなたの家のドアを叩いて、募金を強要しようというわけではないが、無関心か、最低限、問題がそこにあることを認めるか、いずれかを選んでいるのは私たち自身の自由な選択なのだということは、ここで一度思い出してほしいと思う。  なぜなら、今日の無為と否認が、いつかあなたの身近な人を、死に追い込むかもしれないからだ。  遠くの戦争も、今日の無為と否認によって、いつか頭上に降り注ぐミサイルとなる。私の家には落ちないかもしれないが、どこかの誰かの上には落ちる。そのことで影響を受けずにいられるほど、今の世界は広くはない。  ウクライナの戦争は、今日突然始まったわけではない。戦争も暴力も、この世界にはありふれている。だから、今日突然目が覚めたみたいに騒ぎ立てようとは思わない。募金や署名を人に薦めるつもりももちろんない。  ただ私個人は、また見殺しにしている、という罪責感を感じている。  今日この日、そのことをきちんと書き記しておこうと思った。  ただ、それだけのことだ。      
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