14人が本棚に入れています
本棚に追加
/68ページ
見ることと目を閉じること
アプレイウスの「黄金のロバ」を読んでいる。二世紀ごろの作なので、おそらく世界最古の小説。源氏物語よりも余裕で古い。まあ、それはどうでもいいのだが、そこで古い神話にあるプシュケーとエロースの物語が出てくる。
夜の暗闇の中でしか会うことのできない夫。その顔を見ようとした瞬間、幸せな結婚生活が終わりを告げる、という、めちゃくちゃざっくり言うとそういう話なのだが、これがある種の冥界往還譚の性質を持っている。
そういう意味で、イザナギ・イザナミの話や、オルフェウスとエウリディケーの神話と相似形を為していると言える。
注目したいのは、禁忌とされているものを「見る」ことによって、他界との交通が破滅的なかたちで閉ざされるというところだ。
「見るなの部屋」というのは日本の昔話の類型のひとつだし、「青髭」も、聖書のロトの妻の話もみんな「見る」ことが物語の転換点になっている。
「見る」という行為は何故特別なのだろう。
見ることは能動的に視線を動かすことによってなされる。目を閉じている状態では、人は受動的だ。
見ることは対象を把握することであり、環境をコントロールするための一歩だ。
なぜそれが禁忌なのだろう。
一つ思うのは、他界の他界性が、見ることによって損なわれるということだ。
闇に属するものを、光の世界にとりこみ、ロゴスのナイフで解体すること。それが見ることであるならば、他界=無意識の領域の限りない豊饒さを、わかりやすさとひきかえにダイナシにする行為だ。
眼を閉じているとき人は、あるがままの世界を、自己の全体性でもって受け止めている。他界的なものに触れる時の、おそらくそれが正しい態度なのだ。
ギリシャ宗教に特有のヒュブリス(おおざっぱに傲慢と訳されているが)という概念は、もしかしたらそのへんにかかわっているのかもしれない。
それは、ユダヤ・キリスト教的な、「ロゴスによる支配」と真っ向から対立する思想だ。
ちょっと諸方面にケンカを売るような結論になりそうなので、妄想はこの辺にしておきたいが、たぶん、この問いは重要なものだ。もっと時間をかけて考えてみたい。
最初のコメントを投稿しよう!