見ることと目を閉じること

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見ることと目を閉じること

 アプレイウスの「黄金のロバ」を読んでいる。二世紀ごろの作なので、おそらく世界最古の小説。源氏物語よりも余裕で古い。まあ、それはどうでもいいのだが、そこで古い神話にあるプシュケーとエロースの物語が出てくる。  夜の暗闇の中でしか会うことのできない夫。その顔を見ようとした瞬間、幸せな結婚生活が終わりを告げる、という、めちゃくちゃざっくり言うとそういう話なのだが、これがある種の冥界往還譚の性質を持っている。  そういう意味で、イザナギ・イザナミの話や、オルフェウスとエウリディケーの神話と相似形を為していると言える。  注目したいのは、禁忌とされているものを「見る」ことによって、他界との交通が破滅的なかたちで閉ざされるというところだ。  「見るなの部屋」というのは日本の昔話の類型のひとつだし、「青髭」も、聖書のロトの妻の話もみんな「見る」ことが物語の転換点になっている。 「見る」という行為は何故特別なのだろう。  見ることは能動的に視線を動かすことによってなされる。目を閉じている状態では、人は受動的だ。  見ることは対象を把握することであり、環境をコントロールするための一歩だ。  なぜそれが禁忌なのだろう。  一つ思うのは、他界の他界性が、見ることによって損なわれるということだ。  闇に属するものを、光の世界にとりこみ、ロゴスのナイフで解体すること。それが見ることであるならば、他界=無意識の領域の限りない豊饒さを、わかりやすさとひきかえにダイナシにする行為だ。  眼を閉じているとき人は、あるがままの世界を、自己の全体性でもって受け止めている。他界的なものに触れる時の、おそらくそれが正しい態度なのだ。  ギリシャ宗教に特有のヒュブリス(おおざっぱに傲慢と訳されているが)という概念は、もしかしたらそのへんにかかわっているのかもしれない。  それは、ユダヤ・キリスト教的な、「ロゴスによる支配」と真っ向から対立する思想だ。  ちょっと諸方面にケンカを売るような結論になりそうなので、妄想はこの辺にしておきたいが、たぶん、この問いは重要なものだ。もっと時間をかけて考えてみたい。              
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