レトリックは銃だ。

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レトリックは銃だ。

 レトリックは芸術点や技術点を競うものではない。前例のない独自の表現というのは、それだけ伝わりにくい。  読者の8割はテレビをチラ見しながらインスタやLINEをチェックしながらポテチをつまみながら他人の作品を読んでいる(当社調べ)。ただでさえ、(映像や音楽などとは違って)、文章表現というのは読者の想像力を介する必要がある。  だから、レトリックに必要なのはスピードとパワーだ。  正確さ・適切さもあれば望ましいが、表現が像を結ぶのは多種多様な読者の頭の中である。狙撃するような精密さは望むべくもない。むしろ求めるべきは、ショットガンのように面を撃ち抜くインパクトだ。  陳腐な表現、使い古された言い回しは素早く理解される。素早い流れの中に強烈な違和感を引き起こす描写を不意に叩き込めば、読者は思わず注目する。    凝った表現ばかりが続けば読者は疲れてやがて集中力を失う。その先にどんなに素晴らしいストーリーが用意してあろうと、読んでもらえなければ意味がない。文学であろうとエンタメであろうと、そこは一緒だ。  もちろん、陳腐な表現ばかりが続く文章も、同様に読者を飽きさせる。本来読者を驚かせるべきところで、表現の陳腐さのほうが目立ってしまうのはまずい。    文章を書くことが狩りならば、レトリックは銃だ。求める方向に標的を追い込み、確実なタイミングで確実な一撃をぶち込む。目的は獲物を、読者の魂をしとめることだ。  私はそんなふうに考えている。   
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