Chapter1. 『恋する花嫁』

2/12
37人が本棚に入れています
本棚に追加
/98ページ
「ああ! 愛しい人よ。何故、我らの前にはこんなにも多くの壁が立ち塞がるのか!!」 バルコニーの手すりから身を乗り出すようにして下を覗き込めば、ヒースが苦しげに眉根を寄せ、こちらを一心不乱に見つめてくる。 その後ろに広がる庭園では、今の季節の主役であるアンスリウムやグラジオラス、セントポーリア、ヒマワリにマリーゴールドと共に、相変わらず薔薇の迷宮が何の衰えもなく咲き誇っている。 普段の黒いワンピースではなく、クリーム色のフリルがふんだんにあしらわれた、生地の薄いドレスを身に纏ったディアナが、片手を彼の方に向かって伸ばし、さらに身を乗り出す。 その体勢の所為で胸を突き出すような格好になり、元々豊かな胸がより強調されてしまう。 ただでさえ谷間が露わになるほど襟ぐりの深いドレスを着用しているのに、これ以上は異性を刺激するだけなのだが、今この場においてそのことを親切に指摘してくれる人物はいない。 爽やかな夏が到来したことを告げる涼やかな風が、切り込みから素肌を覗かせている、ふわりと膨らみを持たせた袖をぱたぱたとはためかせる。 「なら、そんなものは壊してしまえばいい!! 己を戒めて耐え抜いた先に、一体何があるというの!?」 乗り出していた身を一度引っ込め、きゅっと胸の前で手を組む。 息を吸い込むと、髪に飾っている百合の花の香りが鼻孔を通り抜けた。 「お願い……!! 私を攫って……!! そして何もかもを奪い、貴方という存在に縛り付けて……!!」 「ディアナ……!!」 絶望の表情から一転、歓喜に目を潤ませたヒースが、こちらへ手を伸ばした直後。 「……何をやっているんだ、お前ら」 背後から、呆れを隠そうともしない低い声がかけられた。 すると、途端に先程まで自分の身を包んでいた熱気が冷めていき、ぴたりと動きを止める。 そして、深々と息を吐き出してから後ろを振り返る。 「……せっかく、いいところだったのに」 「何がいいところだ、何が。暑さで頭がやられたのか? ノヴェロはバスカヴィルより、南にあるからな」 「そんなわけないでしょう! こんなに涼しくて過ごしやすいのに、暑さで頭がやられました……なんて言い出す人がいたら、それこそ頭の螺子(ねじ)が緩んでいるんじゃないかって、疑っちゃうよ!」 バスカヴィル国もノヴェロ国も、冬が厳しい代わりに夏は気候がよく、快適な日々を送れる。 そのため、もっと南部に属する国などを代表とした、夏が過ごしにくい地域に住む貴族が涼を求めてバスカヴィル国に訪れることもあるのだ。 バスカヴィル国は害獣という危険な生物が出没することもあるし、閉鎖的なところもあるが、少しの間だけ都会に滞在すれば大丈夫と判断されたのだろう。 余程のことがない限り、田舎には観光客は訪れないが、都会では異国の人間の姿をよく見かけたものだ。 それは脇に置いておくとして、改めていつの間にかディアナの私室に入ってきた人物――ヴァルへと意識を戻せば、彼は安堵した様子で頷いた。 「ああ、正常みたいでよかった」 「もう……」 頬を膨らませてヴァルから目を逸らせば、彼が一気にこちらとの距離を詰めてきた。 「……で? 本気で何をしていたんだ?」 ディアナの隣に並んだヴァルは、バルコニーの下に視線を投げる。 その視線の先では、いつも通りの格好をしているヒースがこちらを見上げていた。 「……ノヴェロ王、貴方は本当に空気が読めない人ですね。せっかくクライマックスに差し掛かってきて盛り上がってきたのに、気分が萎えてしまったではありませんか」 「……は?」 未だこの状況を掴めていないヴァルは間の抜けた声を出し、眉間に皺を寄せた。 そんな彼の袖を掴み、そっと引っ張る。 「あのね、私たち、ロールプレイングをしていたの」 ヴァルはこちらに視線を戻し、目で続きを促してくる。 「ロールプレイング――つまりお芝居。ヒースと一緒に演劇ごっこをしていたの」 だから、決して頭の具合が悪くなったわけではないのだと主張したものの、ヴァルはまだ複雑そうな眼差しを向けてくる。 どうしたのかと首を傾げれば、彼は嘆息してから口を開いた。 「……ディアナ。お前、自分がいくつなのか分かっているのか?」 暗に年齢不相応な幼い行動を取っていると言われ、むっと唇を尖らせる。 「別にいいじゃない。面白い戯曲を読んで自分でも演じてみたいって思うことは、悪いことじゃないでしょう? それに――」 こちらの言葉を遮るように、バルコニーの下から歓声と拍手が送られてきた。 視線を庭園に移せば、そこでは何人かのメイドたちが拍手喝采を送っている姿があった。 「妃殿下、とても素晴らしい演技力でございました……!!」 「演劇を嗜んだことはありませんけれど、それでも妃殿下とヒースさんの演技力がすごいものだとは分かります!!」 「私、すっかり物語の世界に没頭してしまいました……!!」 「……ね? こうやって喜んでくれた人もいるんだし、いいでしょう?」 メイドたちには、ただ「演劇の真似事をするから、声をかけないで欲しい。あと、人払いもして欲しい」と頼んだだけなのだが、ちゃっかりと鑑賞していたらしい。 称賛の言葉の中にはお世辞も混ざっているだろうし、見られていたことに気恥ずかしさも込み上げてくるが、褒められて悪い気持ちはしない。 ヴァルの袖から手を放し、彼女たちに応えて手を振ると、さらなる黄色い歓声が上がった。 まるで、舞台女優にでもなったかのような気分に浸っていると、ぐっと肩を掴まれた。 「……分かった、ロールプレイングとやらは百歩譲って納得するとしてもだ。だが、その格好は何だ!」 その格好とは、間違いなく現在身に着けているドレスを指示しているのだろう。 さりげなく肩を竦め、彼の手から逃れる。 「だって、戯曲の中に出てきたお嬢様のドレスに一番イメージが近かったのが、これだったんだもん。それに、ここはノヴェロのお城の中なんだから、何を着ていてもいいじゃない」 どうして、相も変わらずヴァルはこちらの肌の露出にそこまで過剰な反応を示すのか。 彼に配慮して、公の場では露出の少ないドレスを選んで身に包んでいるが、この程度は許容の範囲のはずだ。 貴婦人の中には、もっときわどいドレスを身に纏っている人もいるのだ。 そういう人と比べたらと考えていたら、どうやって移動してきたのか知らないが、何らかの手段でバルコニーに到着していたヒースが、半眼でヴァルのことを見遣っていた。 「……ノヴェロ王。いちいちそういうことを気にするということは、貴方はそういう目でディアナのことを見ているんですか? 汚らわしい」 「なっ……!!」 声を詰まらせたヴァルが、ヒースの方に振り向く。 「あれですか、貴方はディアナの肌を見るとすぐに欲情するケダモノですか。なるほど、だからディアナには慎ましい格好をしていて欲しいんですね」 「そんなわけあるか!!」 「……ヒース、ヴァルをおちょくるのはやめてあげて」 やんわりとヒースのことを窘めるが、彼の言葉による攻撃は止まらない。 「大体、ロールプレイングくらい、いいじゃないですか。むしろ夫なら、妻の可愛いお願いくらい聞いてやるものです。まあ、貴方では演技力がなさ過ぎて、ディアナの相手を務められそうもありませんけど」 ヒースは顔を背け、口元を手で上品に隠す。 十中八九、ヴァルのことを嘲笑したのだろう。 これ以上ヴァルを怒らせたら、どんな面倒な事態が起きるのかと考えただけで、頭が痛くなる。 そろそろ、ヒースにこの場からご退場願おうとしたところで、不意に彼の身体がバルコニーの手すりの外側に舞った。
/98ページ

最初のコメントを投稿しよう!