Chapter1. 『恋する花嫁』

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「ヒース!?」 信じられないことに、ヴァルがヒースの腕を掴んでそのままバルコニーの外へと投げ出したのだ。 重力に逆らえず、地面に向かって落下していくヒースに、辺りから空気を引き裂くような悲鳴が上がる。 だが、突然の事態にも関わらず、猫みたいに彼は綺麗な着地を決めた。 しんと一瞬の沈黙が過った後、割れんばかりの拍手喝采が惜しみなくヒースに注がれる。 (いやいやいや……) 暢気な周囲とは裏腹に、こんな状況でもディアナの頭は冷静に働いていた。 とんでもない暴挙に出た夫に向き直り、きつく睨み据える。 「ヴァル! さすがに、これはあんまりだよ!!」 「壁伝いに城を上ってくるような奴が、あの程度でどうにかなるわけがないだろう。運が悪くても、骨折くらいで済む」 「骨折したら、痛いよ!! ……というか、ヒース、壁伝いにここまでよじ登ってきたの!?」 今日は自分にしては珍しく、大きな声ばかりが口から飛び出してしまう。 そのくらい、驚きの出来事の連続だ。 服についた土埃を払うヒースに確認すれば、彼はあっさりと頷いた。 「はい、そのくらいはできますよ。鍛えていましたからね」 そうだ。 ヒースもまた、自分と同じくその筋の人だった。 しかも、自分たちは人間ではないため、人間業とは思えない芸当ができて当たり前なのだ。 しかし、怪我を回避できるからといって宙に放り出していいわけがない。 その程度のことは、常識に疎い自分でも分かる。 溜息を零し、再びヴァルと向き合う。 「ヴァル、ヒースに謝って」 「嫌だ」 「嫌だって……子供じゃないんだから、自分が悪い時はちゃんと謝って」 「挑発したあいつが悪い」 「挑発に乗ったヴァルも、悪いです。それに、暴力に訴えたから、ヴァルの方がもっと悪いよ」 「……とにかく、嫌だ」 「どうして、そんなに意固地になるの? ……もう、ヴァルの馬鹿。分からず屋」 「――ディアナ」 そんな風に二人で言い合っていたら、階下から声をかけられた。 もう一度庭園に視線を投げれば、ヒースが言葉を継いだ。 「夫婦喧嘩に巻き込まれるのは御免なので、俺はこれで失礼します」 「え、ちょっ……!」 彼はこちらに背を向けるなり、颯爽と駆け去ってしまった。 周りにいたメイドたちも、空気を読んで城内へと引っ込んでいく。 その代わり、今までどこかで控えていたらしい庭師や使用人たちが、仕事のために庭園へとわらわらと姿を現した。 (……逃げられた……) ヒースに早くこの場から立ち去って欲しいと願っていたのは、紛れもない自分だったはずなのに、いざこうしていなくなられると、逃げられた気がしてならない。 「……ヴァル、やっぱりヒースに謝らなくていいよ」 何だか、だんだんとヒースの自業自得であるような気がしてきた。 ヴァルを怒らせたらどうなるのか、ヒースのだって少しは予想できていたはずだ。 その上でヴァルのことを煽ったのだから、やはり自業自得だ。 この場から逃げたヒースへの悔しさから、そんな結論を下す。 バルコニーから室内に戻り、くるりとヴァルの方を振り返る。 「……でも、相手がヒースだからよかったけど、これからはもう少し落ち着いて行動してね」 目に力を込めて訴えれば、彼は渋々といった様子で頷いた。 「……分かった、気をつける」 とりあえず了承してくれたヴァルに微笑みかけ、そっと髪を耳にかける。 こちらと同様、部屋の中に足を踏み込んできた彼の視線に、首を傾げる。 「どうかしたの?」 「……いや、そのドレス……」 「ああ、これ? ……すぐ着替えるから、もう許して。公の場では、絶対にこんな格好しないから――」 「――似合っている」 てっきり、またお小言でも零す気かと思っていたのに、急に褒められると反応に困る。 そろりとヴァルの目から視線を逸らし、きゅっとドレスの裾を握った。 「そ、そう……? で、でも、ヴァルはいつもだったら、こういう露出多いの、嫌がるのに……」 落ち着かない気分になり、素直ではない切り返しをしてしまう。 純粋に喜べばいいのに、咄嗟にこういう態度を取ってしまう自分が嫌になる。 頬に熱が集まるのを感じながらヴァルを見つめ返せば、今度は彼が不自然に目線を外す。 「……確かに、他の男に今のお前を見せたくはないが――そういうのも可愛い、と思う。見せるのは俺にだけと約束するなら……いや……」 こちらに視線を戻してきたヴァルが、熱を帯びた目で射抜いてくる。 全身の熱が上昇し、今にも顔から火が噴きそうだ。 「――また、着て見せてくれるか?」 欲情の滲んだ眼差しを向けられるのは、気色悪いとずっと思っていた。 もし、ここにいるのが彼ではなく、別の誰かだったとしたら、きっと今でも嫌悪感が込み上げてきただろう。 でも、相手が好きな人というだけで、こんなにも受け取り方が変わるものなのか。 羞恥と同じくらい、歓喜が湧き上がってくるのか。 息が詰まりそうなほどの感情の奔流に呑まれそうになりつつも、辛うじて小さく頷く。 (……好きな、人) 胸中で、密やかに呟く。 ヴァルに恋をしているのだと自覚してから、二ヵ月近く経つが、未だにこの感情に慣れる兆しはない。 だからなのか、実質両想いになったのに、あれから驚くほど進展がない。 恋だの愛だのに現を抜かしてばかりもいられない状況なのだが、幸か不幸か、そちらも恋模様と同じく、膠着状態に陥っている。 こちらの命を狙っていたはずの人物は、あれから何の手も打ってこないし、バスカヴィル国とノヴェロ国の王立騎士団の犯人捜索も成果が上がっていない。 ディアナの暗殺を諦めてくれたのなら、それに越したことはないが、念のためまだ用心は必要だろう。 そういうわけで、現状としては警戒を怠るのはよくないが、ある程度気をつけていれば、何をしようが問題がないのだ。 だから、こうしている今だって彼に想いを告げてもいいはずなのだが、何をしたらいいのか全く分からない。 ヴァルと見つめ合った状態のまま、必死に頭を働かせる。 (世の人って、どうやって告白とかするの……!? いきなり言い出すのも、変だし……!! ……もっと好きになってもらえるように、アプローチするとか? それで、向こうから言わせる空気を作るの? ……ううん、ヴァルはとっくに告白してくれているよ……!!) むしろ、今の自分は相手に返事を待たせているのだ。 それも、何カ月もの間も。 だが、それにしても返事とはいつ、どんな状況で伝えるものなのか。 (難しく考え過ぎ……? ヴァルだって、勢いで告白したようなものだし……) とはいえ、今すぐ口に出せるほどの度胸はない。 改めて考えてみると、ヴァルはかなりすごいのかもしれない。 いつまでも黙り込んでいるのもどうかと思って口火を切ろうとした寸前、先手を打たれてしまった。 「……ピアノ」 「え?」 「前に、頑張って練習すると言っていただろう。……久しぶりに聴かせてくれないか?」 「う、うん! こちらこそ、お願いします。えっと、それじゃあ、着替えてくるね!」 急いで自室から飛び出し、衣装部屋へと逃げ込む。 扉を閉めると、扉に背を預けて細く息を吐き出す。 おそるおそる胸に手を当てれば、どくどくと激しく脈打つ鼓動が伝わってくる。 (――似合う、可愛い……) ヴァルから贈られた言葉を、心の中で反芻する。 思わず口元が緩み、そのままずるずると床の上に座り込む。 彼との距離は今でも変えられていないままだが、それでも充分過ぎるほどの幸せを味わっている。 (いつまでも、こんな日が続くといいのに……) 膝に顔を埋め、早鐘を打つ心臓が落ち着くまで押し寄せる幸福感を噛み締めていた。 
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