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そのとき、館内放送が流れた。あと十分でイルカショーが始まるらしい。
柚原は三奈の頭から手を下ろすと「そろそろ幸たちもこっちに来るかな」と後ろを振り向いた。
そんな彼女を見ながら三奈は「なんで――」と疑問に思っていたことを口にする。
「他人のために本気で怒ったり励ましたりできるわけ? 疲れるでしょ、そういうの」
柚原は視線を三奈に戻すと「んー」と膝に頬杖をついて考え始めた。そして「わたしはさ」と静かな口調で言う。
「わたしが好きな人たち全員に幸せになってほしいんだよね」
「全員?」
「そう。わたしの家族、明宮、美桜、それから瑞穂。みんなに幸せになってほしい。そのためにわたしが何かできるなら、どんなことでもしようって思うんだよね」
「それって、何か得でもあるわけ?」
「あるよ」
三奈は首を傾げた。
「どんな?」
「わたしの好きな人たちが幸せになると、わたしも幸せ」
彼女はそう言って、ニッと笑う。
「……なにそれ。全然わかんない」
「だろうなぁ。三奈はまだお子ちゃまだからなぁ」
柚原はグイッと三奈の肩に腕を回して自分の方に引き寄せた。三奈は慌てて「ちょ、やめて! 近い! 鬱陶しい!」と文句を言いながら身体を捻ってもがく。
「三奈も、わたしの好きな人の一人に入れてやろうか?」
その言葉に三奈は一瞬動きを止めたが、すぐに全力で彼女の腕を振り解いた。
「絶対に嫌。それに、わたしはあんたじゃなくて美桜の好きな人だから」
柚原を睨んで言ってやると、彼女はきょとんとした顔を浮かべてから声を出して笑った。
「そっか。そうだったね。じゃあ、美桜には責任をもって幸せにしてもらわないとな」
「責任……」
たしか、美桜もそんなことを言っていた。美桜のことを拾った責任をとれ、と。
三奈は思わず笑みを浮かべる。
――拾われたのは、どっちだろう。
そのとき三奈のスマホが鳴った。メッセージの通知のようだ。
画面に表示されているのは美桜の名前。急いでメッセージを開くと、そこにはいつもと変わらない美桜の言葉があった。
『明日、水族館行かない? 前に行ったところ、夏休みだから展示も変わってるって。あと買い物も。三奈、服とか買いたがってたじゃん。行こうよ。二人で』
三奈は自然と微笑みながら返信を打つ。
『二人で?』
既読。そしてすぐに返信。
『親友と二人で遊びに行きたい』
「……しょうがないなぁ」
三奈は呟くと、返信を打ってから立ち上がる。
「あれ、高知さん? もうショー始まるけど」
声がして振り向くと、幸と手を繋いだ松池が首を傾げて立っていた。
「今日はもう帰る。明日、また来ることにしたから」
「明日?」
「ほう? 誰と?」
柚原がニヤニヤと笑みを浮かべながら三奈を見上げている。三奈は彼女に笑みを返して「美桜」と答えた。
「え、御影さんと?」
「うん。なんか美桜、わたしと一緒に来たいって言うから」
「そ、そうなんだ……?」
松池は困惑した様子だ。三奈は頷いてから「先生」と松池に笑みを向ける。
「ありがとね。話せてよかった」
「え、あ、うん。どういたしまして」
答えながら、彼女は戸惑ったように笑みを浮かべた。
「なあ、三奈」
柚原の声に三奈は彼女を見る。柚原の表情は、まるで三奈のことを褒めているかのように温かかった。
「明宮のこと、いじめるなよ?」
「さあ。それはあの人次第じゃない?」
――あの人が美桜を傷つけない限り、そんなことしないけど。
思ったけれど口にはしない。それでも柚原には伝わったのだろう。彼女は「ほどほどにね。あいつ、ああ見えて打たれ弱いんだから」と言ってヒラヒラと手を振った。
三奈は頷いてから松池に「じゃあ」と軽く手を挙げる。そのとき、松池と手を繋いでいる幸と目が合った。彼女はニコリと笑って「さようなら」と頭を下げる。
「……子供はちゃんと礼儀正しい」
「そうだろう。自慢の娘だからな」
「おい、ミナミ」
柚原の夫が困ったような笑みを浮かべて「すみません」と頭を下げた。遠目からだと気づかなかったが、柚原よりもかなり年上に見える。
彼女の雰囲気とは釣り合わない、大人の男といった感じだ。
柚原は、一体どういう人生を歩んできたのだろう。
そんな興味を抱きながら三奈は彼女に視線を向けた。柚原は「なんだよ?」と不思議そうな表情を浮かべる。
「別に。じゃあね」
三奈は言って彼女たちに背を向けた。
「あ、瑞穂。そのキーホルダーまだバッグにつけてんの? 明宮、バッグだと落とすかもしれないからって、昨日、車につけ直してたぞ」
「えっ! そうなんですか?」
「あいつ、大事なものはとりあえず車につけようとするんだよ。なんだろな、あれは」
背中に瑞穂の嬉しそうな笑い声が聞こえた。三奈は笑みを浮かべながらスマホの画面を開く。
『水族館、楽しみ。あと映画も観たい』
美桜の言葉が温かい。
『何の映画にする?』
『三奈が観たいって言ってたやつ。ホラーの』
美桜はいつでも三奈を見てくれていた。気づかなかったのは、自分で自分にウソをついていたから。
彼女が自分のことなど見てくれているはずがない、と。
『美桜、ホラーってダメじゃなかったっけ』
『大丈夫。三奈が面白いって言ってたやつ、だいたいそんなに怖くなかったから』
『なにそれ、ひどい』
『わたし、三奈が好きっていう映画は好きだよ』
美桜の好きは三奈と同じ好きではないけれど、それでも彼女は三奈のことが大好きなようだ。
『でも明日は美桜が好きな映画観ようよ。わたしも美桜の好きな映画とか知りたいし』
だったら自分も彼女のそばにいよう。そしていつかまた、彼女を守れる自分になろう。
『わかった。じゃあ、映画のあとは――』
水族館を出て外をぼんやり歩く。
できるだけ人のいない場所へ。
一人になれる場所へ。
その間も途切れることのないメッセージ。
画面に次々と表れる美桜の言葉たちは今までと同じように淡々としていて、何事もなかったかのよう。
『殴って、ごめんね』
だけど時々、不意打ちのように伝えられる彼女のまっすぐな言葉はスッと心に深く沁みていく。
そしてまた一つ、彼女のことを好きになる。
『いいよ。わたしも昨日、殴ってごめん』
溢れ出したこの気持ちが、いつか穏やかな居場所を見つけることができると信じて、少しだけ素直になろう。
『ありがとう、三奈』
三奈はスマホをしばらく見つめてから、そっとそれを胸に抱きしめる。
「――大好きだよ、美桜」
もう彼女に届くことのない言葉は、闇の中に吸い込まれて消える。その闇を照らすように、スマホの画面が再びパッと光った。
『ありがとう』
美桜はもう、あのときのような脆く壊れてしまいそうな彼女ではないけれど、それでも彼女の言葉はあのときのまま三奈の心を包み込んでくれる。
「ありがとう、美桜」
その言葉を素直に伝えることは、まだきっとできない。
あの人の隣にいる美桜のことを笑って見守ってあげることもできそうにない。
だから、もう少しだけウソを纏っていよう。
――ありがとう。
いつか素直にそう伝えることができたとき、美桜への気持ちはどんな形になっているだろう。
わからない。
わからないけれど……。
三奈はスマホを握った右手を夜空に伸ばした。
あの日の彼女の手の温もりは、きっといつまでも三奈のことを導いてくれる。
美桜が見ている、ウソのない綺麗な世界へ。
そう、思えた。
完
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