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どうも調子が狂ってしまう。どうしてこの人は、こんなにもコロコロ感情が変わるのだ。
三奈が黙っていると「なんで?」と柚原は優しい声で聞いてくる。三奈は顔を俯かせ、膝に置いた手を握りしめた。
「だって、美桜はわたしの気持ちを知ってるのに……」
それなのに、そんな残酷なことを言ってくる。三奈がそれを断れないことを知っていながら。
「うん。知ってるから、そう言ったんだろうね」
「そんなの、ひどい」
「ひどい?」
「ひどいでしょ。わたしに苦しめって、そういうことでしょ?」
少しの沈黙。バシャッと水が跳ねる音がした。プールにイルカたちが戻ってきたのだろうか。周囲に人の気配が多くなってきた気がする。
幸せそうな笑い声が響いていた。
「美桜は、そんな回りくどいことしないと思うけど」
柚原の静かな声が言う。
そんなのわかっている。だけど、そう思わないと納得ができない。
「美桜はさ、あんたのこと大好きなんだね」
ハッと三奈は顔を上げた。柚原は微笑みながら「じゃなきゃ、死ぬまで友達でいるなんて言わないでしょ」と続けた。
「そんなはずない。だってわたしはもう美桜には必要ないんだから。美桜には、もうわたしなんかいなくても――」
「それはあんたが決めることじゃなくない?」
強い言葉だった。その言葉を聞いて、三奈はようやくわかった気がする。どうして彼女のことが苦手なのか。
彼女が言うことは、いちいち正論なのだ。三奈が言い返せないほどの正論を叩きつけてくる。
まるで美桜のように。
しかし美桜よりも強く、容赦なく。
「……ムカつく」
思わず呟くと、柚原はニヤッと笑った。
「なんだ、わかってんじゃん。だったらいいや。ほんと捻くれてるね、三奈は」
「名前、気安く呼ばないで」
柚原はフッと笑ってから「まあ、でも」と三奈を柔らかく見つめた。
「そうやって美桜の気持ちを誤魔化して、自分はいないほうがいいんだって自己犠牲よろしく美桜と友達の縁を切るっていうのなら、自分からちゃんとけじめをつけなよ」
「美桜の気持ちなんて、わかんない」
「美桜はウソをつかない。そんなの、あんたが一番わかってんでしょ?」
「当たり前じゃん」
「じゃあ、わかるでしょ」
そう言って柚原は笑った。
「美桜はあんたと一緒にいたいんだよ。たとえ嫌われようともね」
「……わたしが美桜のこと嫌いになるわけないのに」
「だったら縁を切る必要もない」
柚原は笑みを浮かべながら静かな口調で言った。
「一緒にいられる選択肢があるのなら、そうするべきだよ。お互いを必要としてるなら、尚更さ」
三奈は思わず柚原を見つめる。彼女はプールの方へ視線を向けていたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「……あの人のこと、好きだったんですか?」
柚原は横目で三奈を見ると薄く笑みを浮かべた。
「瑞穂が言ったの?」
三奈は首を横に振った。
「あなたの話が出た流れ的に、そうなのかなって」
深くため息を吐いて、彼女は「うん」と頷く。
「でも、わたしは逃げた。明宮と縁を切ったんだよ。自分からね。そして再会するまでの九年間、ずっとわたしは明宮のことが好きだった」
三奈はイベントショップへ視線を向ける。柚原の家族と瑞穂は再びレジに並んでいた。娘の年齢はいくつくらいだろう。小学生であることは間違いない。明るい笑顔を浮かべる彼女は幸せそうに見える。
「……家族がいるのに好きだったの?」
「そうだよ。わたしは家族をつくって幸せな生活を送ってきた。だけど、わたしの中に残った気持ちはずっと時間が止まったまま。そりゃそうだよね。だってわたしの中にいる明宮は、あのときのままなんだよ。高校時代の、わたしが好きだった明宮のまま。ずっと変わらない。わたしが逃げたから、わたしの中の時間は止まっちゃったんだ」
三奈は静かに彼女の言葉を聞いていた。さっき瑞穂も同じような事を言っていた。そのときはよく理解ができなかった。けれど、今はなぜかなんとなくわかる。
「離れずに、あの人のそばにいたらその気持ちは変わってた?」
柚原は三奈へ顔を向けて、悲しそうに頷いた。
「きっとね。明宮を好きだという気持ちは変わらなかっただろうけど、だけどその形は変わってたと思う。たぶん、自分の中でいい感じに形を変えて、新しい居場所を見つけてそこに収まってさ……。そうしたら、わたしの隣にはずっと明宮がいて、旦那や幸もいて。今よりも、もっと幸せな人生になったんじゃないかって思うんだ」
柚原は薄く微笑む。昔を懐かしむように、悲しそうに。
「逃げちゃダメだったんだよ。たとえ、どんなに自分が過ちを犯したと思っていたとしても。自分を殺して、すべての縁を切って逃げ出しちゃダメだったんだ……。そんなことしたら自分が壊れるよ。そのとき支えてくれる人がいなければきっと完全に、壊れてしまう」
何も、言うことができなかった。
柚原の言葉は、それを経験した人でしか言えないような重みがあった。
三奈はしばらく彼女の横顔を見つめ、そして「でも……」と口を開く。
「わたしは美桜への気持ちの形すら変えたくないし、美桜のことを守れない自分のことが嫌い。自分のこと、ちゃんと抑えられるかもわからない。それなのに、そばに居続けるなんて」
柚原はニッと笑みを浮かべた。
「それでも美桜はあんたのこと好きなんじゃないの? だから死ぬまで友達でいたいって思ってるんでしょ。離れたくないって。どんなあんたでも一緒にいたいって」
――ずっとそばにいるからね。三奈が嫌だって言っても、ずっと。
別れ際に美桜が言った言葉が蘇る。
そうだ。
美桜がウソなんて言うわけがない。その言葉にウソをついていたのは三奈の方なのだ。わかっていた。わかっていたけどわかりたくなくて、彼女の言葉は三奈を苦しめるための罰なのだと、そう思い込もうとした。
三奈はグッと唇を噛んで俯く。
「……あなたに言われなくても、それくらいわかってるし」
そのとき、ポンッと三奈の頭に柚原が手を置いた。
「うん。じゃあ、悩む必要もないよね。嫌われたいほど好きな相手が、自分のことを死ぬまで友達でいたいって思えるほど好きだって言ってくれてるんだよ? すごい両想いじゃん」
でも、それは望んでいた両想いとは違う。
「こんなに両想いなのに嬉しくないわけ?」
柚原が三奈の顔を覗き込む。
そんなわけない。嬉しいに決まっている。
「……わたしは、まだ美桜のこと守れるかな」
「当然でしょ。美桜の性格だと、絶対これから生きていくの苦労するからね。それを支えてくれる友達は必要だよ。そしてその相手はあんたがいいって美桜は思ってるんじゃない? 意識はしてないかもだけど。あいつは明宮と似てて、自分のことに鈍感なとこがあるからな」
「やめて」
思わず顔を上げて三奈は言っていた。
「わたしの美桜があの人と似てるなんて、そんなこと冗談でも言わないで」
柚原は一瞬目を丸くしたが、すぐに「そりゃ失礼」と笑った。そしてポンポンと三奈の頭を優しく叩く。
「そうやって、たまには素直になってみるのもいいと思うよ」
「――うるさい」
ダメだ。この人には敵わない。
三奈は再び俯き、彼女の優しい手を頭に感じながら思った。
何を言っても柚原には心を見透かされてしまう。
そんな気がする。
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