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ニ
休憩スペースのある十階までは、三階分登らなければならない。
残業が増え、休憩に入る時はこの階段を上ることが、堂場の日課だった。
机にばかり齧りついていると、身体が固まっていくような感覚がした。
蛍光灯が照らす階段に、彼の足音だけが響く。
ポケットに入れた小銭の感触を確認する。コーヒーを買う金額は入っているはずだった。
ひと月前、残業が増え始めた時は、ここまで高頻度で休憩スペースへ足を運ぶことになるとは思っていなかった。
確かに、残業が連日続くと、休みたくなるタイミングも多くなる。
けれども。
――これ、どうぞ。
明確なきっかけは、女の一言だった。
堂場が休憩スペースへ通うようになり、気付いたことが一つあった。
それは、毎日いる一人の女の存在だ。
自分の会社のフロアでは見かけないので、同じビルに入る他社の社員なのだろう。
ネームプレートは胸ポケットに入っているので、名前までは知らない。
彼女はいつも、自販機前のベンチの隅に、一人で掛けていた。
堂場は休憩中にスマホをいじったり、本を読んだりしていたが、女は違う。
カフェオレの缶を持って、ボーッと、ベンチの右手にある履き出し窓の外を眺めていた。
彼はその様子に気付きつつ、ベンチの後ろに設置してあるテーブルセットに腰掛け、自分の時間を楽しんでいた。
一方、意識の端では、女の姿が気になるのだ。
女の茫然とした様子はどこか病的なものを感じさせて、不安になった。自身でも気持ち悪かったが、女の姿を追うのが、いつの間にか習慣になっていた。
先日のことだ。
珍しく、堂場よりも遅れてやって来た女は、自販機に小銭を入れた。
横に流しているロングヘアの隙間から、ほっそりとした首が覗いている。視線を移すと、小銭を入れる白い手が震えているのが、見て取れた。
その白さに気を取られていると、次の瞬間、『ガシャン』と飲み物の落ちる音が辺りに響いた。
手に取るため、女は屈む。
あ、と控えめな声が聴こえた。
暫く立ち尽くした女は、堂場の方を振り返った。
驚いた彼は、慌てて目線を手元の本に落とす。
近付いた足音は、これまた驚いたことに、堂場の脇で止まった。
恐る恐る顔を上げると、少し化粧の崩れた、白い顔があった。ピンクの口紅が印象的だが、対照的に、目の下には隈が浮いている。
女はそのふっくらとした、けれどカサついた口から
「これ、どうぞ」
と、言葉を発し、彼の目の前にブラックコーヒーの缶を置いた。
再び、地鳴りのような音が響き、堂場は我に返った。
階段の踊り場に差し掛かっていた。
外に騒がしさを感じ、ガラス張りの踊り場から下を除くと、蠢く人の列と誘導員が見える。
道路に溢れんばかりの人を、警官と誘導員が協力して押し留めている様は、さながら働き蟻のようだった。
背筋を伸ばした警官の姿。
その姿と、明々と主張する警棒を見ると、線香の匂いがひと際強く、周囲に漂うような気がした。
「あんたは、同じ仕事だけはやめて」
あの時、蓋の開いた棺を前に、彼の母はそう言った。
こめかみから、纏め切れなかった髪のひと房が肩へと流れていた。
クーラーは効いているが、その首筋には汗が浮いていて、遠くから、蝉の声がした。
地鳴りに、物思いを止めた。
子供の歓声や、酔っ払いの騒ぐ声が、下層を取り巻いている。
堂場はそれに踵を返し、再び階段に足をかけた。
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