1/2
前へ
/6ページ
次へ

 休憩スペースのある十階までは、三階分登らなければならない。    残業が増え、休憩に入る時はこの階段を上ることが、堂場の日課だった。  机にばかり(かじ)りついていると、身体が固まっていくような感覚がした。  蛍光灯が照らす階段に、彼の足音だけが響く。  ポケットに入れた小銭の感触を確認する。コーヒーを買う金額は入っているはずだった。  ひと月前、残業が増え始めた時は、ここまで高頻度で休憩スペースへ足を運ぶことになるとは思っていなかった。  確かに、残業が連日続くと、休みたくなるタイミングも多くなる。  けれども。  ――これ、どうぞ。  明確なきっかけは、女の一言だった。  堂場が休憩スペースへ通うようになり、気付いたことが一つあった。  それは、毎日いる一人の女の存在だ。  自分の会社のフロアでは見かけないので、同じビルに入る他社の社員なのだろう。  ネームプレートは胸ポケットに入っているので、名前までは知らない。  彼女はいつも、自販機前のベンチの隅に、一人で掛けていた。  堂場は休憩中にスマホをいじったり、本を読んだりしていたが、女は違う。  カフェオレの缶を持って、ボーッと、ベンチの右手にある履き出し窓の外を眺めていた。  彼はその様子に気付きつつ、ベンチの後ろに設置してあるテーブルセットに腰掛け、自分の時間を楽しんでいた。  一方、意識の端では、女の姿が気になるのだ。  女の茫然とした様子はどこか病的なものを感じさせて、不安になった。自身でも気持ち悪かったが、女の姿を追うのが、いつの間にか習慣になっていた。  先日のことだ。  珍しく、堂場よりも遅れてやって来た女は、自販機に小銭を入れた。  横に流しているロングヘアの隙間から、ほっそりとした首が覗いている。視線を移すと、小銭を入れる白い手が震えているのが、見て取れた。  その白さに気を取られていると、次の瞬間、『ガシャン』と飲み物の落ちる音が辺りに響いた。  手に取るため、女は屈む。  あ、と控えめな声が聴こえた。  暫く立ち尽くした女は、堂場の方を振り返った。  驚いた彼は、慌てて目線を手元の本に落とす。  近付いた足音は、これまた驚いたことに、堂場の脇で止まった。  恐る恐る顔を上げると、少し化粧の崩れた、白い顔があった。ピンクの口紅が印象的だが、対照的に、目の下には隈が浮いている。  女はそのふっくらとした、けれどカサついた口から 「これ、どうぞ」  と、言葉を発し、彼の目の前にブラックコーヒーの缶を置いた。  再び、地鳴りのような音が響き、堂場は我に返った。  階段の踊り場に差し掛かっていた。  外に騒がしさを感じ、ガラス張りの踊り場から下を除くと、蠢く人の列と誘導員が見える。  道路に溢れんばかりの人を、警官と誘導員が協力して押し留めている様は、さながら働き蟻のようだった。  背筋を伸ばした警官の姿。  その姿と、明々と主張する警棒を見ると、線香の匂いがひと際強く、周囲に漂うような気がした。 「あんたは、同じ仕事だけはやめて」  あの時、蓋の開いた棺を前に、彼の母はそう言った。  こめかみから、纏め切れなかった髪のひと房が肩へと流れていた。  クーラーは効いているが、その首筋には汗が浮いていて、遠くから、蝉の声がした。  地鳴りに、物思いを止めた。  子供の歓声や、酔っ払いの騒ぐ声が、下層を取り巻いている。  堂場はそれに踵を返し、再び階段に足をかけた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加