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 エレベーターに乗り、十ほど下のボタンを押す。  ビルに入っている企業に向けた、休憩スペースがその階にある。  存在自体は入社後すぐに気付いていたが、最初のうちは世話になる必要もなく、定時退社を決め込んでいた。  丹代のオフィスからは階が離れているせいか、同僚と行く機会もなかった。  三カ月ほど経ち、自分がフロントに立つようになると、その余裕は霧散した。  増える残業。四十五時間のボーダーライン。  どんなに仕事があっても、人手が足りなくても、残業が四十五時間を超えれば、上司に「要領が悪い」と言われる。  それでも、前の部署は大学時代に勉強していた広告知識が役に立った。  しかし、今年の部署移動である。  企業のWEBアカウント担当と訊いて、正直前より楽だろうと、丹代は踏んでいた。  その認識は甘かったと、言うほかない。  広告効率に対する、新しい評価指標や用語のインプット。読まなければならない、と上司に言われた本の消化。  そして、次から次へと難題を課すクライアント。  残業は毎月最低でも六十時間を超すようになった。  の割に、結果は芳しくなく、上司、クライアントのどちらにも(なじ)られる。    憧れの業界だったのに。  丹代は近くなっていく建物の光を、ガラス張りのエレベーターから眺めた。  オフィスから離れた休憩スペースへ行き、自分だけのひと時を持つのが、いつの間にか習慣になっていた。  誰もいない。誰にも何も言われない。  その時間の、何と幸せなことか。  早く、自分の身体が目覚めを迎えなくなればいいと、最近はそればかりを考えていた。  その孤独な時間の中に、最近一人の男が現れるようになった。  別に話すことはなかった。  基本的に彼はスマホを見ているか、本を読んでいるようだった。  ――一度だけ。  丹代が自販機でカフェオレのボタンを押した時に、何故かコーヒーが落ちてきたことがあった。飲むか迷ったが、丹代は甘さの無いコーヒーが苦手だったので、本を読んでいた男に渡した。  その時の男は、いつものポーカーフェイスを少し緩め、目を見開いていた。  男はやや考え込むと、財布を掴んで立ち上がった。  いつもコーヒー片手に休憩しているイメージだったが、違ったのだろうか。  そんなことを考えながら、丹代がベンチに戻ろうとすると、自販機を前にした男が言った。 「何飲む?」  丹代は言葉に詰まった。  何と返していいかわからず、「カフェオレ」と伝えた。  エレベータの中からでもわかる、大きな地響きがする。  ビルの下の方から聴こえる歓声のせいもあり、丹代は我に返った。  同時に『十階です』という電子音声がエレベータ内に響いた。  楽しそうだな、と丹代は暗い廊下に足を踏み出しながら思う。  あの夏、あんなことを言わなければ、階下にいるのは自分だったのかもしれない。  孤独に仕事を進めるのではなく、大学時代のゼミ仲間たちのように、愛する人と共に歩む未来を掴んでいたかもしれないのに。  そう考える自身に気付き、彼女は微かに笑う。  そして、足下灯のみが光る、暗闇を進んだ。
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